大阪万博を照らした原子力の灯。「親であり、わが子」だった原発は日本を支え、事故で否定された 「操縦士」が語る激動の半生、2025年の来場者に伝えたい言葉とは
現場の全員が前を向いていた。「原子力をやるからには世界一になろう」という思いだった。稲田さんはその後関連会社へ出向するまでの約20年間現場で働き、M1に続いて建てられた2号機、3号機でも当直課長などを歴任した。 ▽「いらない」と吐き捨てられた 2011年3月11日。稲田さんはテレビに映る東京電力福島第1原発を見て絶句した。「これはあかん」。終日勤務ではなくなっていた稲田さんは、小豆島の家で草刈りをしていた。「一にも二にもまず冷却」「水素が出たら爆発する」。50年近く前、東海村や「鳥小屋」で学んだ基本の「き」が脳裏をよぎった。 当時美浜町で働いていた運転員らによると、事故直後、美浜町にある美浜原発のPR施設には県外から反対派が詰めかけた。「福島みたいなことがあれば、美浜の人もみんな死ぬかもしれんのやぞ」。ののしられ、責められ、「いらない」と吐き捨てられた。そして2015年3月、1、2号機の廃炉が決まった。
稲田さんは当時を思うと、今でも悔しさで言葉に詰まる。「M1は自分を育ててくれた親であり、大事に育てた子どもでもある。それを取り上げられ、否定された。今までの頑張りは何やったんやと傷ついて、心にぽっかり穴が開いたみたいで…」。関西経済の成長の基盤となり、人々の生活を支え続けてきたという自負に「ばってん」を付けられた気がした。ただ、同時にこうも思った。「ひどい事故や。日本をめちゃくちゃにした」。国に振り回されたと思う半面、自らが安全を信じ、疑わなかったのも事実だった。 ▽名もなき人々を思って 福島の事故以降、関電では美浜1号機を含む4基の廃炉が決まり、国の新規制基準をクリアした原発から順次再稼働した。ところが原子力政策の大前提となる、使用済み燃料を再処理する核燃料サイクルは実現の見通しが立たない。最終処分場は立地が決まらず、再処理工場の完成も延期を繰り返す。国は依然として原子力政策を推進するが、現時点では原発が持続可能なエネルギーとは言い切れない状況だ。