大阪万博を照らした原子力の灯。「親であり、わが子」だった原発は日本を支え、事故で否定された 「操縦士」が語る激動の半生、2025年の来場者に伝えたい言葉とは
配属後は発電所近くのプレハブ小屋に一日中こもり、技術習得のため米国に渡った先輩技術者12人による「鬼の指導」を受けた。テストざんまいのため、連日徹夜。その厳しさから社員らは「鳥小屋」と呼んでいたほどだ。稲田さんは先輩にかみついたこともあったというが、こうも話した。「その背中を見て『やり遂げたい』と強く思った」 1969年には原発の心臓部に当たる原子炉容器が完成。翌年の1月、全体の工事が完了した。大阪万博の開幕は3月に迫っていた。 ▽国民に訴えかけた二面性 そして迎えた1970年大阪万博。日本館は日本の過去、現在、未来がテーマだった。科学技術を紹介するエリアには、巨大なタペストリーが掲げられた。「よろこびの塔」には原子力の光が、「かなしみの塔」には原爆によってできるきのこ雲が描かれていた。 美浜1号機は7月29日に初臨界した。核分裂の連鎖的な反応が一定の割合で続き、送電準備が本格化した。そして8月8日。原子力によって作られた電気が送られてきたと宣言する、華々しい「セレモニー」が催された。万博は原子力の二面性を国民に訴え、未来に向けて前向きな意識を形成する絶好の機会だった。
稲田さんは閉幕間際の初秋に、家族と会場を訪れた。4歳の娘に自慢した。「父さんがここで使われてる電気を作ってるんやで」。混雑でパビリオンはほぼ回れなかったが、熱くほとばしる達成感と誇らしさを胸に、帰路に就いた。 戦時中に生まれた稲田さん。原子力の恐ろしさは胸に刻んでいる。その一方で「理想論でメシは食えない」とも思っていた。被爆者でありながら、中国電力で原発に関わっていた友人もいた。教科書も鉛筆もない戦後の貧しい時代を生きたからこそ、工場を動かし、雇用を生み、人々の生活を豊かにする電力にはあらがえないと思った。ぼんやりとした感覚は、その後起こった2度のオイルショックで確信へと変わった。 資源の乏しい日本で、電力の安定供給を実現させた原発の「パイオニア」M1。運転員たちは配管の点検や修理に昼夜奔走し、トラブルがあれば原因究明に明け暮れる激務の日々を送った。かつて「くろよん」に憧れた稲田さんのように、万博でのセレモニーを見て入社した美浜町出身者もいた。「地元から日本を照らしたい」という一点の曇りもないまなざしをしていた、と稲田さんは振り返る。2010年には関西の電源別需給実績で原子力は全体の44%を占めるまでになっていた。