【戦後80年】 吉田茂らのスパイグループ「ヨハンセン」は戦争終結のために何をしたのか?
ガダルカナル島やアッツ島などでの敗北を契機として、戦局が悪化の一途を辿って敗戦の色彩が濃厚となりはじめたちょうどその頃、戦争の早期終結を図ろうと、密かに活動を続けていた一団がいた。その存在を嗅ぎつけた軍部によって「ヨハンセン」と名付けられ、監視されていたそのグループとは、一体? 吉田茂らヨハンセングループの活動 ガダルカナル島撤退(昭和18年2月)やアッツ島玉砕(昭和18年5月)に続いて、サイパン島までもが陥落(昭和19年7月)するなど、戦局が悪化の一途をたどっていたその頃、密かに戦争の早期終結を図ろうとするグループがあった。 元首相・近衛文麿(このえふみまろ/吉田茂の盟友)や元内大臣・牧野伸顕(まきののぶあき/吉田の岳父)らの重臣、及び吉田の外務次官時代の上司・幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)、元文部大臣・鳩山一郎らがその一員であった。 その連絡役として活動の中心的な役割を果たしていたのが、当時外務省を退官して自由な身であった吉田茂。その実、戦争を早期に終結せんと工作を続けていたのである。 ただし、それを現実のものとするには、一億玉砕に突き進む軍部の目に止まらぬよう、秘密裏に行動する必要があった。それでも、このグループの動向を軍部が察知。彼らを警戒し始めたことはいうまでもない。 吉田の「よ」と反戦(はんせん)を繋げ、ヨハンセンと秘密の暗号名で呼び、スパイを送り込んで、その行動を監視し続けたのである。 水面下の休戦交渉と近衛上奏 その後、戦局がさらに悪化。20年1月にはルソン島が陥落。小笠原諸島南端の硫黄島まで失ってしまえば、本土への爆撃も必至…との不穏な空気が漂い始めた2月14日、近衛文麿が、意を決して戦争の早期終結を天皇に上奏したのである。驚くべきはその際、軍部に紛れ込んだ共産分子が軍を策動して戦局拡大を図っていることや、その後共産革命が起きる可能性があることまで暴露したのである。 この上奏(じょうそう)文は、近衛と吉田で練り上げたものであったが、大磯の吉田邸にお手伝いとして潜り込んでいた石井マキが、二人の隙をみて写し取ったことで軍部も把握。その草案に、吉田が関わっていることを知ったのである。2カ月後の4月15日、東京憲兵隊が大磯に乗り込んで吉田を連行。罪状は造言飛語(ぞうげんひご)罪、つまりあらぬことを言い立てて軍部を中傷したというものであった。それでも、吉田は完全黙秘。軍部は容疑が実証できず、ついには不起訴にせざるを得なかったようである。
藤井勝彦