千葉で空襲体験 生き抜いた女性が伝える「平和と花咲か和尚の功績」
また館山には、全国で唯一の兵器整備養成学校があり、周辺の基地には水上特攻艇「震洋」や人間魚雷「回天」も配備された。 そのため戦争中は、米軍による空襲の重点対象になった。基地周辺には長さ1.6キロにもおよぶ地下壕や、戦闘機を隠すための掩体壕が40以上もつくられた。現在も館山市内には多くの戦跡が残る。
そして戦争が終わった
結局、米軍が館山に上陸しないまま終戦を迎える。1945年8月15日の敗戦の知らせは、家族と一緒にラジオで知った。母が涙を流しているのを見て、松苗さんもつられて泣いた。妹はまだ幼く事態がのみ込めなかったようで、きょとんとしていた。 終戦翌日から、社会の空気ががらりと変わったのがわかった。まず、男女同権になったといわれた。それまでの軍国主義が嘘のように、平和を声高に叫ぶ人が増えた。 戦時下の息苦しさから解放されたようにも見えたが、松苗さんは若くして死んでいった兵隊たちのことがいつまでも忘れられなかった。死と生の境目にいた日々を二度と味わいたくなかったし、社会の犠牲になるのはいつだって弱いものだということを忘れてはいけないと思った。 「二度と悲惨な戦争を起こさないために、大事なのは教育だと思ったんです」 松苗さんは千葉大学に進学する。教員資格を取り、卒業後は地元の中学校やろう学校で美術教師として定年まで勤め上げた。戦争反対の思いは常に心の中にあった。
戦時中から盛んだった花の栽培
定年後、子どもたちに本の読み聞かせなどをしていた松苗さんは、知り合いから興味深い話を聞いた。戦時中に一風変わった花好きの住職がいたという。 住職は大事に育てた花が米2斗(約30キロ)で売れたことから、寺の畑で本格的に花の栽培を始め、村人にも作り方を教えた。住職は、宝安寺の岩永益禅(いわながえきぜん)師。戦前から貧しかったこの地に花作りを広めて、「小沼の花咲か和尚さん」と慕われていた。 農家の中には最初は抵抗する者もいたが、やがて村全体が花の栽培に取り組み主力産業となった。益禅師は近隣の村人にも栽培方法を教え、その結果、館山一帯は花の名産地となった。 松苗さんは益禅師を題材に、史実に基づいた紙芝居を作ろうと決めた。