千葉で空襲体験 生き抜いた女性が伝える「平和と花咲か和尚の功績」
忘れられない記憶
「近くにあった館山海軍航空隊基地には若い兵隊さんがいたんですね。休みの日は地方から来た兵隊さんたちは行くところがありませんから、基地近くの民家に休みに行ったんです。うちにもよく若い航空兵さんが来てね。私と3歳下の妹はお兄さんたちと会うのが楽しみでした」 だが、1945年になり戦局が悪化すると、彼らの顔色は次第に曇っていった。ある日のこと、2人の若い兵が松苗さんの両親に何かを言っているのが聞こえた。両親は娘たちに精いっぱいのおめかしをした。 「兵隊さんは、私と妹と一緒に記念写真を撮らせてほしいと言いました。記念に家族に送るんだって。すごくかわいがってくれていたから、私たちもうれしかったの。近所の写真館で撮影したんですけど、そのあとパタリと来なくなっちゃった」 2人の兵は九州からやってきたという。19歳と20歳の若者だった。一葉の写真に残る2人の真摯なまなざしは、悲壮な決意を物語っているかのようだ。彼らはおそらく特攻に行ってしまったのだろうと松苗さんは振り返る。戦後、この写真を頼りに新聞などで呼びかけたが、家族が名乗り出ることはなかった。
松苗さんは戦地に行く若者たちをただ見送るしかなかった。やがて、「沖縄がやられた」「次はこっちだ」と噂が回ってきた。 ある晩、父が子供5人を部屋に呼び寄せた。 「ここ館山にもアメリカ兵が攻めてくる。お父さんはこれでみんなを守る」 見せられたのは一本の竹槍だった。銃を持っている相手に敵うはずがないと子供心にもわかった。 「『死ぬときはみんな一緒だからね』と父は言いました。家族が一緒なのはうれしいけれど、死んで怖いところに行くのは嫌だなあと思いました」 当時、松苗さんは8歳。怖くて押し入れで泣き続けたという。
軍事の重要拠点だった館山
米軍が館山に侵攻してくるといわれたのは、地理的な要因が大きい。東京湾の入り口に位置する館山は、首都東京を守る最重要の軍事拠点で、1930年には館山海軍航空隊が置かれた。館山市のホームページによれば、館山市一帯には、航空機の修理、部品の補給などを行う工場をはじめ、さまざまな軍事施設がつくられたという。