千葉で空襲体験 生き抜いた女性が伝える「平和と花咲か和尚の功績」
館山は花のまちに
紙芝居を作るにあたり、館山の花作りについても調べた。館山の花作りは現在も大きな出荷量で、ストックは全国の半分以上を出荷している。 益禅師が最初に花作りを広めた西岬・神戸地区は、現在はJA安房を通して、ストックやひまわりなど779万本もの花を出荷している(2020年度)。鈴木農園は、2000坪ほどの敷地を持ち、主にトルコキキョウとストックを生産している。
館山を歩けば、いたるところでビニールハウスが目に入る。海岸沿いを走る道路は「房総フラワーライン」と名づけられ、沿道に植えられた菜の花は多くの人の目を楽しませている。
花禁止令の発布
松苗さんの紙芝居は、変わり者の和尚が館山市小沼にやってくるところから始まる。花を愛する和尚は、村人に花作りを教え、そして花は村を豊かにしていく。だが、館山の大きな産業になった花作りは、太平洋戦争の開戦直前にいったん途絶えてしまう。
真珠湾攻撃の2カ月前の1941年10月、政府は食料にならない作物を作ることを制限し、米やイモなどを育てることを命じた「農地作付統制規則」を実施した。これにより、事実上、花の栽培が禁じられたのだ。田宮虎彦の『花』という小説に、房総の当時の様子が詳しく描かれている。 ~花を抜いたのは仁助の家ばかりではなかった。ラジオや新聞がハワイの真珠湾の奇襲攻撃やマレー沖海戦や香港占領、そして、マニラ占領とつぎつぎに戦果を発表していくたびに、天畑のあちらの畑でも、こちらの畑でも、咲きほこっている金盞花や寒菊やスイートピーの花畑をまるで踏みにじるようにして花を抜きはじめた~『花』より 「種苗を焼いて、さらに花の苗を道路に置いて踏みつけたと聞いています。農家の人は悔しさで涙を流したそうです」(松苗さん)
命令を無視した和尚さん
だが、益禅師はこれに抵抗する。 「和尚さんは今までと変わらず花の世話を続けます。国の命令なんてどこ吹く風。B29が近隣に爆弾を落としたときも、平然と花の世話をしていたようです」(松苗さん) 近所の人たちは「軍に目をつけられますよ」と忠告をしたが、聞かなかったという。政府の命令に従わなければ非国民と呼ばれた時代。だが、益禅師の他にも、花の種をこっそり保存したり、人里離れた山奥に隠すなどしたりして種苗を守り抜いた農家もいたという。益禅師はもちろん、館山の人にとっても「花は心の食べ物」だったのだ。