教室から席がなくなるのはイヤ──「ともに学び、ともに育つ」大阪府独自のインクルーシブ教育、揺らぐ足元
「今年の場合、全ての学級に入り込みをしています。そのために『どの支援担が、どの時間に、どの子の教室に入るか』という細かいパズルのような時間割を組んでいます。その時間割は一度組んだらおしまいというのではなく、1人ひとりの子どものその日の状況などに応じて、その都度調整しています。支援担の教職員どうしの連携を大切にし、さらに学級担任とも日々話し合って、いろいろ悩みながら、どの子も通常学級でともに学べるように取り組んでいます」
世界に先駆けたインクルーシブ教育の萌芽
なぜ大阪では独自のインクルーシブ教育が行われているのか。その源流は1970年代にある。差別解消を目指す人権同和教育と障害者解放運動が大阪で出合い、強く結びつく。障害のある子どもも分けずに一緒に学ぶことが、障害者解放運動にもつながるし、人権同和教育の考え方とも一致するのだ、と。 教員生活約40年になる校長の橋本さんは「50年かけて築いてきたもの」と語る。
「豊中でもかつて養護学級(現在の支援学級)は拠点校方式で、設置校に障害種別ごとに集められ、バスや電車で越境通学していた。でも、そこで親が『なんでうちの子は、目の前の学校行かれへんの?』と声を上げた。それに気づいた先生たちも『親だけに任せておいてもええんか』と運動を始めた。その結果、1978年にできあがったのが『豊中市障害児教育基本方針』です。2016年には、障害に対する考え方が時代とともに変化してきたことに対応するため、改定版も制定されました。これがある限り、通常学級での学びを保障する豊中の教育は崩れない」 こうした動きは周囲に広がり、やがて大阪府では「ともに学び、ともに育つ」教育が基本となる。1994年にスペイン・サラマンカで開かれた「特別ニーズ教育世界会議」(ユネスコ、スペイン政府共催)で採択された「サラマンカ宣言」が、インクルーシブ教育を国際的に明示した初めての文書とされているが、それより20年も前から大阪ではインクルーシブ教育の萌芽があった。 南桜塚小学校の長尾さんや中田さんは、このような教育環境下で育った。1970年代に出た芽は、しっかりとした幹を持つ木に成長したといえるだろう。