『光る君へ』藤原兼家も息子の道隆も、愛する女性の和歌とともに旅立った。道長の最期はどう描かれるのか?
◆『蜻蛉日記』が伝える兼家の「輝かしき日々」 兼家との結婚生活の悩みや苦しみを綴った『蜻蛉日記』。『蜻蛉日記』がなければ『源氏物語』も生まれなかっただろうといわれるほど、当時の人々に大きな影響を与えた作品です。 『光る君へ』の序盤でも、倫子が結婚前に開いていた勉強会で、この『蜻蛉日記』が題材になっていました。そのとき、まひろは、「これは女の嘆きを綴ったものではなく、身分の低い自分が高貴な男性に愛されて、激しく生きた、という自慢話では?」などと鋭く分析していましたね。 興味深いのは、嫉妬に苦しむ己の姿を綴れば綴るほど、結果として、兼家の色男ぶりが強調されること。兼家の不遇を描かず、着実に昇進してゆく華やかな姿だけを記している、との評もあり、作者には、自分の愛した兼家の栄光を記録したい、という思いもあったのかもしれません。 そんなことを踏まえつつ、先の「嘆きつつ……」の歌が登場したドラマのシーンを振り返ってみましょう。 兼家の死を描いた第14回。死期の近づいた兼家は、愛妾(道綱母)の前で、彼女の和歌を詠み上げ、「あれは良かったのう……。輝かしき日々であった」とつぶやいて、満足そうな表情を浮かべたのです。人生の最後にあの歌を思い出したのは、浅はかなモテ自慢ではなく、彼女の文才を称え、お互いにとっての「輝かしき日々」を懐かしみたかったからではないでしょうか。 兼家も息子の道隆も、愛する女性の和歌とともに旅立ちました。では、もうひとりの息子・道長の最期はどう描かれるのか。少々気が早いですが、大いに気になるところです。
SUMIKO KAJIYAMA
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