赤楚衛二の仕事論「壁にぶつかって悩んだほうが人として分厚くなれる」
「あんまり自分の私生活について考えたことがない」と赤楚衛二は言う。その佇まいは自然で、どこにも気負いがない。私生活と仕事の境目のなさ。ごく当たり前のこととしてプライベートと芝居を融合させている。映画『366日』で赤楚が演じた真喜屋湊も、誰かを強く想うが故に、その想いが不器用さに転じてしまうような人だった。 【全ての写真】赤楚衛二の撮り下ろしカット
高校生~社会人を熱演「意識したのは重心」
映画『366日』で赤楚が演じたのは、音楽の世界で生きることを目標にする、沖縄で暮らす高校生・真喜屋湊。後輩であり、後に恋人となる玉城美海(上白石萌歌)と音楽好きの趣味を通じて仲を深めていく。心が芯から浄化されるような純愛ストーリーにおいて、赤楚は高校生から30代にかけて年齢幅のある役柄を、自然に表現している。 「高校時代の湊を演じるときは、あえて『高校生らしさ』『若々しさ』みたいなものは意識しなかったです。そもそも湊は高校生のころから少し達観しているというか、わかりやすく音楽に熱中している男の子なので、強いて言うなら少し身体の重心を上げ下げすることを意識しました。高校生では重心を上げて動きにメリハリをつけ、年齢を重ねるにつれ下げていく」 表情や目線の動き、声のトーンはもちろんのこと、言葉にしにくい身体感覚から人物造形にアプローチしていった。芝居の世界ではよく“憑依”という表現が多用されるが、身体の使い方から湊としてその場に存在することで、自然に年齢の積み重ねまでを表出させた。 「高校生だからといって、じゃあ高校生らしくしなきゃ! って考えちゃうと、それ自体がもう高校生らしくないじゃないですか。高校生であることは大前提、自分がそれを受け入れていれば自然とそう見てもらえるんじゃないかな、と。あとは衣装さん、メイクさん、照明さん、携わった多くのスタッフさんの技術のおかげです」 好きな音楽を通じて心を通わせる湊と美海。しかし湊は、彼と過ごすために夢を諦めようとする美海に対し、複雑な感情を隠せない。意見が食い違い、喧嘩になってしまう場面もある。そこですぐに謝れる湊の元来の素直さは、赤楚だからこそ出せる違和感のない透明感をともなう。 「湊は根本的に美海の幸せを願っているから、つい言い過ぎてしまっても『言い過ぎた、ごめん』と事実に対して率直に謝れるんだと思います。ぜんぶ美海のことを思っての言動だからこそ、出てきた言葉なんだろうな、と考えながら演じてました。新城毅彦監督や上白石さんとも、すごく話し合ったシーンです。お互いに強く言い過ぎてしまうと、嫌な人に映ってしまう。どれくらいの温度感が、二人の重ねてきた年月を考えるとリアルなのか、丁寧に認識を合わせながら進めていきました」