「乗り越えるのは結局子ども自身」3児の父・ブラマヨ小杉がいじめられた経験を子どもに話す理由 #今つらいあなたへ
新年度の始まりは転校シーズンでもある。「いじめられていた“陰キャ”な自分を変えなきゃと思い、転校を機に“陽キャスイッチ”を入れた」と語るのは、ブラックマヨネーズ・小杉竜一さん。つらい時期をどう乗り越えたか、そして3児の父となったいま子どもに何を伝えたいか、話を聞いた。(ジャーナリスト・中村竜太郎/Yahoo!ニュース Voice)
小学生でいじめを経験 “陽キャスイッチ”を入れ自分を変えた
――明るく朗らかな印象の小杉さんですが、子ども時代にいじめを経験されたそうですね。 小杉竜一: そこまでひどくはなかったのかもしれないですけど、急にみんなから口きいてもらわれへんようになったとかはありました。誰も遊んでくれへんとか、ひとりで座ってたら物が飛んでくるとか、そういうレベルのやつだったんですけどね。大人からするとどうってことないと思うかもしれないけど、当時の僕にはけっこうこたえましたね。 ――いじめがあったのはいつ頃ですか。 小杉竜一: 小学校3年生のときです。僕、小学校に入学したとき両親が離婚して、小3にあがるときお母さんのもとで暮らすことになり転校したんです。まわりの誰も知らん、やっている勉強もちょっと違う、教科書も違う。もうすべてが狂ったみたいな感じになってしまいました。 ――転校生はいじめの対象になりやすいといいます。何かきっかけはありましたか。 小杉竜一: ちっちゃいことですね。京都市内はみんな赤か黒のランドセルなのに、転校前の小学校は“ランリュック(ランドセルとリュックの中間のかばん)”。学校で「なんやねん、そのかばん」とからかわれてしまって。お母さんに「これは嫌やわ」と訴えても、「買われへん、お金ないから」と。でも知り合いから、油が抜けて戦後のグローブみたいにボロボロのランドセルをもらってきてくれた。「俺、小学校何年生やねん。28年生?」、内心そうつっこみましたが、お母さんに悪いから口にはしませんでした。 ――いじめっ子に言い返したりはしなかったんですか。 小杉竜一: その頃の僕は無口で、内気すぎて言い返せなかったですね。そのうちドッジボールに入れてもらえなくなり、校庭の隅っこにいたら、遠くから僕に当てようと狙ったボールが飛んできて、移動してもまたボールが飛んでくる。給食でゼリーが余ったらみんなでじゃんけんして食べるという遊びがあったんですけど、僕はハブかれていました。 ――親や先生にいじめにあっていることを伝えましたか。 小杉竜一: 先生に言うっていう発想がなかったし、「なんかあったんか?」と聞かれることもない。かといって、親に「こんななってんねん」と言うのは男として恥ずかしいみたいなものがありました。それに、シングルマザーのお母さんが必死に働いて頑張っている。その苦労が子どもながらにわかっていましたから、これ以上心配かけたくないと思いました。 ――そんななか、少年時代の小杉さんの救いは何だったのですか。 小杉竜一: 当時ラジカセをもらい、タレントや芸人が話すラジオ番組を聴くのが好きで、『オールナイトニッポン』とか聴いていたんです。これがけっこう救いでした。あと、こんな僕にもしゃべりかけてくれるナイスガイなクラスメートがいて、ちょっとした冗談を言い合ったり。要は学校カーストの3軍ばっかりが集まっているわけですけど、そこでワイワイして楽しい空気を味わうのはもうひとつの逃げ場になっていましたね。 ――その後どうなりましたか。 小杉竜一: 実は1年後にまた転校することになって、そこでちょっと変わりました。学校や塾で、ラジオで聞き覚えた冗談をみんなの前で言うと、「小杉、おもろいな」となって少しずつ友だちも増えて、いじめが減ってきたんです。“陰キャ”な自分を変えなきゃと思っていたところだったので、2度目の転校を機に“陽キャスイッチ”を入れ、思い切りアクセル踏み込んでみたら、ラッキーなことに4年生ではスムーズにいきました。ちょうど5、6年生の頃にとんねるずさんがブレイクしていて、中学に入ってからはダウンタウンさんの『4時ですよ~だ』が始まり、学校の女の子が「(光GENJIの)諸星君と浜ちゃんどっちがかわいいか」って喧嘩していたほどの人気でした。僕をいじめから救ってくれたラジオを出発点に、芸人さんへの憧れがふくらんでいき、いまの仕事につながっていった気がします。 ――小杉さんは、小学校3年生のときに空手を始められていますね。いじめ時期と重なりますが、どうしてだったのですか。 小杉竜一: 気弱で内気な性格を変えたい、自分の殻を破りたいと当時から考えていて、「空手をやりたい」とお母さんに相談したら、「やっていいよ」という話になって、母の友人の薦めで極真空手を習うことになったんです。 数々の優勝者を出している(極真会館)京都支部の川畑幸一師範が僕の恩人でした。家庭環境を知っていてくれたのか、「お母さんも弟もいるから、頑張りなさい」と諭されました。ときには「喧嘩売られたら買え!そのかわり絶対負けて帰ってくるな」と叱咤もされました。僕が一生懸命頑張っていたら、型がきれいで強い、素質があると見込まれて、「この道場で頑張っていたら世界チャンピオンになれる」と激励されたことも。最終的に少年部で1番か2番ぐらいにうまくなれて、僕に最初の自信をくれたのは空手でしたね。その自信ができたことによって、人前でもしゃべることができるようになりました。