小林幸子「ボランティアをすると自分が救われる気持ちになる」被災地の復興支援から学んだこと
能登半島地震から今日で2か月。被災地の復旧に向け支援は続いている。歌手の小林幸子さんは地元新潟が2度の大地震に襲われたことをきっかけに、度々発生する自然災害の被災者への慰問や支援活動を行っている。過酷な状況に置かれてもひたむきに力強く生きる人々の姿を見てきた小林幸子さんに、復興支援への思いを聞いた。(ジャーナリスト・中村竜太郎/Yahoo!ニュース Voice)
復興支援のきっかけは2004年10月の中越地震
――小林さんは雪国、新潟の出身ですね。同じ北陸、能登半島地震の被災者にどんな思いを寄せますか。 小林幸子: 私は1964年の新潟地震で実家がつぶれてしまった経験があるのですが、みなさんのご苦労が痛いほどわかります。どうか、どうか踏ん張ってください。もうそれしか言いようがないんです。歌い手ですので慰問に行くこともできますが、インフラが整備されるまではそんな時期ではないのかなと迷いつつ考えます。けれど何かお役に立てることがあるならば、いつでも被災地を訪れたいと思います。 ――2004年の中越地震のときは被害が甚大だった山古志村(現・長岡市山古志地区)を訪問されました。 小林幸子: 直下型の中越地震で山古志村は震度6強。どうしたらいいかわからない、本当に復興できるのかと思ってしまうほど被害はすごかったです。10月23日に発生して、すぐに行きたかったのですけど現地訪問は11月18日でした。8か所全部の避難所を回りましたが、その様子を見ると歌を必要とする感じではないとすぐに察しました。 一夜のうちに自分の家が無くなった方が大勢そこにいらっしゃる。無言で壁に向かっている人もたくさんいて、声をかけるのもためらいました。そんななか私に声をかけてくれる方もいて、こんなことを言われました。「まだ、ばあちゃんが見つからないんです。ばあちゃんが戻って来るように、さっちゃん、サインしてください」。この場でのサインがもしかすると不謹慎じゃないかと一瞬とまどいましたけど、「はやく、はやく、元気な姿見せてください」と願いを込めてひとつひとつ、求められるままにサインを書きました。1週間、1か月経っても復興がなかなか進まない状況を知るたびに、つらかったですね。 ――歌は歌わなかったんですか。 小林幸子: さっき話したように厳しい現実が目の前にありましたから、歌うつもりはなかったんです。ところが最初の避難所を出ようとしたら、遠くのほうから「さっちゃん、歌ってくんないの?」と声がかかりました。私が「ここで歌っていいの?」と聞くと、「歌って!」と。それじゃあと、ラジカセをカラオケにして、「私の代表曲でもあります『雪椿』を歌います」とマイクを持ったら、すごくよろこんでくれて。「雪椿」は新潟県の県木なんです。で、歌の途中に《つらくても がまんをすれば きっと来ますよ 春の日が(作詞:星野哲郎、作曲:遠藤実)》というフレーズがありまして、ここでみなさんが一斉に泣き出したんです。歌い終わると集まって来てくれて、「さっちゃん、必ず春がやってくるよね。やってくるよね、この歌のように」と歌詞の言葉を信じるように何度もそう口にされました。 ――そうやって避難所を回られたんですね。 小林幸子: 最後、一番人が多いところへ行って、「じゃあもう時間が遅いから、私、帰るね。また来るから」とお別れの挨拶をしました。これ、思い出すと泣いちゃうんですけど、なんという言葉を返されたと思います? 「さっちゃん、気をつけてね。風邪引かないでね。私たち、応援してるから」って。私が応援に来て、励ましているつもりで来ているのに、被災したみなさんが、「応援するからね」「さっちゃん、頑張ってね」と返してくれる。私は「ありがとう」と言ってその場を去りましたが、車へ戻るまでずっと泣きっぱなし。後ろを振り向けませんでした。そのとき教えてもらいましたね、人間て強いな、と。弱いばっかりじゃない、強いなって思いましたね。