深谷上杉氏の本城 深谷城(前編) 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ
深谷城は、戦国時代に築かれた深谷上杉氏の城です。深谷上杉氏は、関東管領を歴任し、関東の中心的存在であった山内上杉氏の分家にあたる名門です。深谷上杉氏の祖とされる上杉憲英(のりふさ)は、初代関東管領を務めた上杉憲顕の6男とされ、はじめは庁鼻和(こばなわ)郷を本拠とし、庁鼻和城を築き、「庁鼻和上杉氏」と称されました。その後、庁鼻和上杉氏は戦国時代に深谷城を築き、やがて本拠を深谷に移し、本城としました。これにより、この系統は、「深谷上杉氏」と呼ばれる存在になりました。 【写真】かつての本丸にあたる深谷城址公園と図書館周辺 深谷城築城の詳細は不明ですが、室町時代に書かれた『鎌倉大草紙』には、康生2(1456)年に上杉房憲によって深谷城が築かれたと書かれています。ちょうどこの頃は、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の争乱「享徳の乱」が幕を開け、関東が二分されて、各地に戦乱が広がった時期に当たります。このような状況の中で、鎌倉公方が本拠を鎌倉から古河に移し、「古河公方」と呼ばれる存在になると、対する関東管領は五十子(本庄市)に陣を置き、本拠としました。 そして、利根川を挟んで対峙(たいじ)した両者は、戦いに備えるため、それぞれの要所に城を築いたのです。河越城、岩付城、江戸城なども、この時期に上杉方が築いた城であり、深谷城もこれらの城と同じように、対古河公方勢力に対する防衛線のひとつとして築かれた可能性が高いと考えられます。深谷城は、五十子陣の東方約10キロに位置し、さらに約40キロ東方に古河が位置するため、まさに深谷城は上杉氏の本拠五十子陣防衛の前線基地ともいえる重要な城だったと考えられます。 ■戦乱の緊張感漂うエリア その後、長尾景春の乱、長享の乱、小田原北条氏の武蔵侵攻など、めまぐるしく状況が変わる乱世の中で、深谷城のまわりには皿沼城、曲田城、東方城、人見城など、たくさんの城が築かれました。これらの城の配置から、いかに深谷城周辺が戦乱の緊張感漂うエリアであったか、そして、上杉方にとっての深谷城の重要性が見て取れます。深谷城は、本県における戦国時代の歴史を物語るに欠かせない城のひとつです。 現在の深谷城址公園と深谷市立図書館周辺が、かつての深谷城の中心部にあたります。周辺は開発が進み、往時の姿をしのぶのは難しいですが、深谷城址公園東側に祀られている深谷上杉氏の祈願社と伝わる富士浅間神社(智形神社)の社殿横に、かつての堀跡を見ることができます。社殿を取り巻く水路と池からも、深谷城を囲むように巡らされていた堀の名残を感じることができます。