一条天皇が死ぬ間際に「定子と彰子」どちらの中宮に想いを残したのか。和歌に残された「君」のなぞ
やがて一条天皇が重い病に伏せると、皇太子の居貞親王への譲位が行われるなかで、おのずと「誰が次の皇太子になるか」に注目が集まった。 道長は敦成親王を皇位継承者にするべく、行成を通じて一条天皇を説得。一条天皇としては、亡き定子が生んだ第1皇子の敦康親王を後継者にしたかったが、押し切られるかたちとなった。 これに怒ったのが、意外にも彰子だった。一条天皇の意向に従って、敦康親王こそ次の皇太子にすべきだと、彰子は考えていたようだ。養母としてともに月日を過ごした彰子からしてみれば、我が子が生まれたことで、敦康親王が追いやられるような事態は耐えがたかったのだろう。
道長にはとてもではないが、受け入れがたく、かつ、理解できない娘の要望だったに違いない。従来の方針通り、彰子の子であり、自分の孫である敦成親王を皇太子に据えさせた。彰子はそんな父・道長のことを「怨み奉られた」(『権記』)という。 ■随所に見られた彰子の細やかな心遣い 自分の子が厚遇されることを誰もが願ったこの時代に、彰子の思いやり深さは、特筆すべきことだろう。 彰子がどんな女性だったのか。それがわかる史料は乏しい。だが、残した和歌からも、柔らかな性格が伝わってくる。
彰子の出産から遡って3年前の寛弘2(1005)年10月に、敦康親王の石山詣が行われると、父の道長や母の倫子、祖母の穆子、妹の姸子が同行することになった。当時、17歳だった彰子は妹の姸子にあてて、こんな和歌を贈っている。 「人をのみ 思ひやるまにこのごろは 関に心の 越えぬ日ぞなき」 (あなたのことばかりに思いを馳せるうちに、心が逢坂の関を越えていかない日はないのです) それから2年後の寛弘4(1007)年に、母の倫子が44歳で末妹の嬉子を出産すると、彰子は、子の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式「産養」を主催。白い織物衣と綾の産着などを母に贈って、道長を感動させた。