一条天皇が死ぬ間際に「定子と彰子」どちらの中宮に想いを残したのか。和歌に残された「君」のなぞ
このとき一条天皇は20歳、定子は23歳。一方、彰子は12歳にすぎず、定子が生んだ敦康親王の養母になるとは、本人はもちろん、誰も想像しなかっただろう。 ■養母として敦康親王を大切にした 一条天皇のもとに第1皇子が生まれたのは、喜ばしいことだったが、宮中には手放しで喜べない事情があった。 というのも、定子は兄・伊周の不祥事で出家した身だった。それにもかかわらず、定子を職御曹司(しきのみぞうし)にわざわざ移してまで、一条天皇が寵愛したことについて、宮中では不穏な空気が流れていた。藤原実資は『小右記』で「はなはだ稀有のことである」と苦言を呈している。ほかの公卿たちも同じ気持ちだったことだろう。
そんな声を物ともせず、一条天皇は定子との間に、1男2女をもうけることになる。だが、第3子となる次女を出産したのち、定子は体調を崩して病死してしまう。 道長からすれば、娘の彰子が一条天皇との間に子を成してくれるのがいちばんだが、現時点では第1皇子・敦康親王をバックアップするほかない。自身は後見役を担いながら、彰子を敦康親王の養母とすることで、娘に朝廷での影響力を持たせようとした。 一方の彰子からすれば、14歳にして養母として定子の忘れ形見を支えながら、定子を忘れられない一条天皇の気を引いて、世継ぎを生む……という、なんとも複雑な役割を担うことになった。
父から背負わされた運命に、何もかも嫌になる夜もあったのではないだろうか。紫式部がいうところの「あまりものづつみせさせ給へる御心」(あまりにも控えめな性格)である彰子は、己の感情を露わにするタイプではないため、その胸中はわからない。 ただ一ついえることは、彰子にとって幼き敦康親王は、かけがえのない存在になったということだ。自身に子どもが生まれてからの彰子の態度に、そのことがよく表れている。 寛弘5(1008)年9月11日、21歳の彰子は一条天皇との間に第2皇子として、敦成親王をもうける。彰子が入内してから、約9年の月日が経っていた。父の道長と母の倫子が、歓喜したことは言うまでもない。