「トイレで老婆が剃刀を向けてきた…」。朝ドラの寅子モデルが、キャリアを積む中で抱いた葛藤
数カ月後には、初代最高裁長官・三淵忠彦の長男にあたる、三淵乾太郎と再婚。お互い子連れで、乾太郎は嘉子より9歳年上で50歳だった。嘉子はプライベートの面でも気持ちを新たにすることとなった。 そして、同年12月からは東京家庭裁判所の判事も兼務することとなり、昭和38(1963)年4月から東京家庭裁判所へと異動している。 実は昭和25(1950)年に、まだ判事ではなく判事補だった頃、嘉子はアメリカを視察する機会があった。アメリカでは、女性が一人で裁判所を任されていることや、裁判所のなかに託児所があることなど、驚きの連続だったようだ。
そして、アメリカ視察から帰った頃、嘉子はNHKの座談会に女性法律家の代表として出席。その場で「女性の裁判官は女性本来の特性から見て家庭裁判所がふさわしい」という意見が出ると、嘉子はすぐさま反論している。 「家庭裁判所裁判官の適性があるかどうかは個人の特性によるもので、男女の別で決められるものではありません」 このときに嘉子は内心、警戒心を強めたという。次のように振り返っている。 「私は最高裁判所家庭局で家庭裁判所関係の仕事をしたことがあり、年齢的に見ても家庭裁判所裁判官にふさわしいということでその第一号に指名される可能性が十分にあった。先輩の私が家庭裁判所にいけばきっと次々と後輩の女性裁判官が家庭裁判所に送り込まれることになろう」
女性裁判官の進路に女性用が作られては大変だ――。 そんな思いから、「人間的に成熟するであろう、50歳前後まで家庭裁判所の裁判官は引き受けない」と、このときに決めたのだという。 嘉子はその決意通りに、13年余りの地方裁判所を経験してから、48歳にして家庭裁判所へと異動してきたことになる。 自分の行動がどのような影響を及ぼすのか。いかなるときも法曹界全体を見渡す、嘉子の視野の広さには驚かされるばかりだ。