柄谷行人回想録:中上健次の死、文学の弔い
文学との縁を精算するために
――確かに、特に前半は一方的に柄谷さんが聞いている不思議な対談です。 柄谷 この時点では、僕はガンだとはまだ聞いていなかった。中上は、僕の方が先に死ぬと決めつけていたし。 ――92年8月12日に亡くなりますが、直前に新宮に中上さんを見舞っています。 柄谷 死ぬ数日前のことでした。実は、僕が新宮に行くのは、それが初めてだった。中上には何度も誘われていたけど、彼の親族や地元の問題にあまり深入りしたくなかった。 だけど、亡くなったあとには、葬儀委員長をやって、弔辞も読んだ。その後、中上の追悼も書いたし、全集の編集もやった。こういうことは全部、本来なら、僕は嫌なんです。親の葬式ですら、嫌々やったくらいだから。だけど、中上の弔いは、過去の清算のようなつもりだった。文学との縁を清算するんだから、絶対に嫌々やっていると見られないようにしようと思ってやった。それでこその弔いだからね。 ――文学の弔い、ですか。 柄谷 僕自身は70年代末には、近代小説が果たした決定的な役割は終わった、という実感があって、文学から離れ始めていたんです。でも、中上が生きている間は縁が切れなかった。その中上が死に、95年には、小説家だった妻の冥王まさ子も病気で亡くなった。彼女はずっとアメリカに住んでいて、そこで亡くなりました。 思えば、2人は、僕にとって文学の霊のようなものだった。その霊がようやく僕を離してくれた、という感じがした。じっさい、以降、僕と文学との縁は切れたんです。新人賞の選考委員は、義理もあってしばらく続けたけど、小説はまったくといっていいほど読まなくなりました。 (聞き手・滝沢文那)
朝日新聞社(好書好日)