柄谷行人回想録:中上健次の死、文学の弔い
柄谷行人さん(83)は、戦後長きにわたって国内外の批評・思想に大きな影響を与えてきた。柄谷行人はどこからやってきて、いかにして柄谷行人になったのか――。そのルーツから現在までを聞く連載の第20回。 【写真】柄谷さんが葬儀委員長を務めた、中上健次の葬儀など
――1992年に、作家の中上健次が46歳の若さで亡くなります。柄谷さんを語る上では外せない人です。 柄谷 お互いが批評家と作家になる前からの長いつきあいでした。(第7回参照) ――初めて会ったのは68年だという話ですが、大作家になるだろうという予感もあったんでしょうか。 柄谷 こいつは違う、すごい作家になると思った。ただ、まだ本領は発揮していないという感じだった。当時、小説家志望者のほとんどは、大江健三郎の模倣をしていて、中上もそうでした。中上に、あれを読め、これを読めといっていろいろな作家の作品を勧めたのは、可能性を感じたからだと思う。 ――柄谷さんは、中上さんが作家として本物だと思ったのは、「十九歳の地図」(73年)からだと語っています。掲載誌を読んではがきを書いたら、本人にはまだ雑誌が届いていなくて、喜んで電話してきたそうですね。 柄谷 そんなこともあったかな。 ――その後は、75年発表の「岬」で芥川賞を取り、「枯木灘」、「千年の愉楽」と出身地・新宮の被差別部落を背景にした傑作を次々に書いていきますね。79年には、2人の対談をまとめた『小林秀雄をこえて』も出ます。 柄谷 僕は、5歳上で兄貴分。中上は、手のかかるちょっと厄介な弟のような存在だった。向こうは向こうで、柄谷は頼りないから、自分が偉くしてやらなければ、という使命感があったらしい(笑)。僕はずっと、中上とは意識的に距離を取っていた面があった。そうじゃなかったら、身が持たないからね。しかし中上のほうはそれが気に食わない。「水くさいよ」とよく言っていた。
めんどくさい求愛
――中上さんには、酔っ払って作家や編集者を殴ったというような伝説もありますが……。 柄谷 僕は一緒に飲んでいても、最後までつきあうことはあんまりなかったから、そういう現場には居合わせてない。人から、いろいろ話は聞きましたけどね。毎日のように夜中に電話で呼び出されて朝まで帰してもらえない、とか、飲んでいるときに難癖をつけられていじめられる、とか。バーで、中上が島尾敏雄にからんだら、島尾さんに「表に出ろ」と言われたという話も聞きました。そうなると急におとなしくなった、と(笑)。 ――柄谷さんは、暴力的なイメージは、本人が意図的に作り出したものだったのではないかと指摘していますね。 柄谷 地元の同級生たちは、物静かで内向的だった、と言っていました。上京してマルクスを読んだり学生運動に参加したりしているうちに、変わったんでしょうね。もともと二面性があったとは思います。内向的だけど暴力的、感性的だけど知的。神経が細やかで人を気遣う、本当に優しい面があった。半面、残酷なところもあった。 ――ずっと親しかったというわけでもないんですよね。 柄谷 そうですね。80年代半ばには特に疎遠になっていた。 ――中上さんは、柄谷さんが日本回帰して天皇主義になったとか、“柄谷包囲作戦”をやる、と言ったりしていたとか。 柄谷 そういう形での求愛だったんじゃないかな。面倒くさいよね(笑)。 ――中上さん自身は、柄谷さんとの対談で、こう語っています。「柄谷とこうやってつるんでばっかりじゃだめだと思ってた。柄谷といつ、どこで、切れようかとも思ってた」(「批評的確認」『柄谷行人中上健次全対話』)。文学のためだったと弁解していますね。『地の果て 至上の時』(83年)で新宮の秋幸サーガが完結し、次にどこへ向かうか、悩みも深かったのかもしれませんね。 柄谷 僕は放っておいたんですけどね。向こうは、放っておいてくれない。 ――浅田彰さんが登場して、柄谷さんと一緒に仕事をするようになっていたことも関係があるのでは? 柄谷 たしかに、浅田君に対抗しようとするところはあった。浅田君と中上とでは、全然違う才能なんだから、そんな必要はないのに。中上は小説家だけれど、知的な直感力も並外れていた。勉強家だったし。 そういえば、中上は、浅田君が僕の運転する車の助手席に平然と乗っている、という話を聞いて以来、浅田君を命知らずの豪傑として畏怖するようになったとか(笑)。中上は、僕の運転する車に乗るとこわくてたまらなかったらしい。まあ、全般的に、浅田君のほうがずっと肝が据わってはいるね。