柄谷行人回想録:中上健次の死、文学の弔い
運動に参加、主導したのは
――2人のつきあいはまた復活します。 柄谷 80年代の末に、僕が東大の駒場でやっていた自主ゼミに中上が会いに来た。僕もそろそろ会いたいなと思っていたころだった。ケンカになるかとも思ったけど、和やかな再会になりました。 ――90年代に社会的な運動を一緒に行うことになりますね。90年5月には、作家の筒井康隆さんとともに、文芸家協会を脱退。死刑囚の作家・永山則夫の入会が拒否されたことが理由でした。91年には、中上さんと一緒に湾岸戦争反対の運動を展開します。 柄谷 どちらも中上の主導でした。参加者たちの問題に対する考えはそれぞれ違っていたんだけど、僕はそれでいいと思った。 ――82年に中野孝次(文芸評論家)たちが「反核アピール」を表明したときは柄谷さんは批判的だったと思いますが……。 柄谷 そんなこともありましたね。あの頃はまだ米ソの冷戦構造があって、反核アピールはアメリカは批判しながらソ連については甘い、と思って、加わらなかったんだろうね。僕は冷戦時代には、文学者が政治的な行動をすることには否定的だったんです。だけど、91年の湾岸戦争は、冷戦構造のほころびから起きた戦争で、日本がそれに巻き込まれそうになっていた。 ――柄谷さんたちの声明は二つに分かれてそれぞれに署名を募るもので、書名声明1は「私は日本国家が戦争に加担することに反対します」というものでした。声明2はより踏み込んだ発起人の主張が盛り込まれ「世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる」などとしています。冷戦構造の崩壊で様々なものが変わったわけですね。 柄谷 若い人には想像がつかないかもしれないけど、80年代の最大の出来事は、なんと言っても冷戦の終結です。最終的にソ連がなくなるのは91年だけど、80年代末には崩壊が始まっていた。中上は、その変化に敏感に反応したんだと思う。僕もそれまでと同じ態度ではだめだ、と考えた。 ――いずれも柄谷さんの行動に中上さんが大きく関わっていますね。 柄谷 そうですね。はたから見れば、僕は巻き込まれて責任を取らされている、という感じだったかもしれない。だけど、中上が引っ張り出してくれなかったら何もせずに終わっただろうから、それでよかったんだ。 中上とは、根本のところで方向性が重なっていることが多かった。普段は意識していないけれど、何年かに一度ゆっくり話す機会があると、お互い同じようなことを思っていたんだな、と気付く感じでした。 ――90年の秋にも、ニューヨークに中上さんが訪ねてきて、すいぶん長く話した、ということです。中上さんはあまりお酒を飲まず、柄谷さんのほうが酔っ払ってしまったとか。 柄谷 大酒飲みの中上が酒を飲まなかったということは、もう体が悪かったんだろうね。翌年には、湾岸戦争が始まったわけだけど、中上は反対運動をやりながら、憑りつかれたように書き出した。体調がおかしかったのに、病院にも行かずどんどん仕事を増やして……。 中上が近い将来死ぬような漠然とした予感もあって、その頃やった対談で、僕がインタビューをするような形で、半生を語ってもらったこともありました(「国文学」91年12月号掲載「路地の消失と滅亡」、『柄谷行人中上健次全対話』所収)。