気候変動予測から黒潮大蛇行や台風の進路予測まで――アプリケーションラボのベヘラ所長。激動の研究者人生に見えている未来
研究のきっかけは、子供の頃に体験した気象の極端現象
現在は、数学とコンピュータを駆使する気象シミュレーションの分野で活躍するベヘラさん。修士課程でそちらを選んだのも、シミュレーションによる気象予測をやりたかったから……かと思いきや、子どもの頃から気象そのものに興味があったといいます。 「私が生まれ育った東インドのオリッサ州は、サイクロン、竜巻、砂嵐、豪雨など、激しい気象現象が多いんです。外で遊んでいて急に空が真っ暗になったりすると、子ども心にすごく怖かったですね。それに、天候の変化が激しいと、外で遊ぶ予定が立てにくい。サイクロンが来たら、インドアで遊ぶしかありません。だから、気象をもっとちゃんと予測できればいいのに、と思っていました」 ちなみに、ベヘラ少年がいちばん熱心だった遊びは、クリケット。インドでは最大の人気スポーツで、プロのクリケット選手はNBA(米国のプロバスケットボールリーグ)の選手と同じくらいの年俸をもらうそうです。ベヘラさんは、父親に「プロにはなるのは難しいから、クリケットばかりやっていないで、ちゃんと勉強しなさい」と叱られるぐらい、夢中だったとのこと。屋外競技ですから、たしかに気象予測は大問題でしょう。 「修士課程では、インド内陸部の気温を定点観測して、統計解析をする研究をやっていました。その研究を通じて気づいたのは、インドの北部と南部、東部と西部で気温が異なるのは、海の影響ではないかということです。それで、海洋研究が私の専門分野になりました」
世界史のうねりが、日本での研究のきっかけになった
修士課程を終えたベヘラさんはインド熱帯気象研究所に就職し、その国立研究所で気象シミュレーションの勉強を始めました。当時はようやく研究でコンピュータが使われ始めた時代。「新しい道具は若い人がやったほうがいいだろう」という上司のすすめで、ベヘラさんはコンピュータによる海洋モデリングを手がけることになりました。 「まだインドで海洋モデリングを研究している人はいなかったので、誰にも教えてもらえません。そこで上司がインドに呼び寄せたのは、モスクワの研究者です。当時はインドとソビエト連邦(現・ロシア連邦)のあいだに、科学者や留学生を交換する制度があったんですね。 私はソ連の研究者から、海洋モデリングの基礎を学びました。だから、いずれはモスクワ大学の博士課程に行って、そこで博士号を取るつもりだったんですよ。ところが1991年に、ソ連が崩壊。モスクワ大学からも、『いまは費用を出せないから、来ないほうがいいよ』と言われてしまいました(笑)」 世界史のうねりの中で人生設計の変更を迫られたベヘラさんは、インドで海洋モデリングの博士号を取得。次の仕事を探し始めます。ちょうどその頃、1997年に京都議定書が採択された後に日本で発足したのが、海洋科学技術センター(現・JAMSTEC)と宇宙開発事業団(現・JAXA)の共同プロジェクト「地球フロンティア研究システム」でした。地球温暖化や気候変動現象の解明と予測を目的とする研究センターです。 「日本の気象研究は当時から世界の先端を行くものでしたから、私たちインドの研究者や学生たちも、山形俊男先生や眞鍋淑郎先生、安成哲三先生など日本の研究者たちの論文を読んでいました。それで私も日本で研究をしたいと思い、東京大学で博士号を取った友人を通じて履歴書などを送ったんです。 山形先生が声をかけてくださって、地球フロンティア研究システムに参加することになりました。憧れの山形先生のもとで研究ができるのは、とてもうれしかったですね」