今も「もったいない」が根底に強くある――料理人・道場六三郎91歳が語る戦中戦後の食料難 #戦争の記憶
「魚でも肉でも全て使い切って、成仏させたい」。そう話すのは、テレビ番組『料理の鉄人』で初代「和の鉄人」として活躍した道場六三郎さん。91歳を迎えた今も厨房に立ち、YouTubeでは家庭料理のレシピを伝授する。料理人としての原点は、終戦後に働いた魚屋での体験にあるという。戦中戦後の食料難をどう生き抜いたか、語ってくれた。(取材・文:関容子/撮影:濱津和貴/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
「なんで降伏するんだ、死ぬまでやればいいじゃないか」
昭和20年の8月15日、今からもう77年前のことになるんですな。僕は14歳で、当時の尋常高等小学校2年でした。ちょうどお盆で、父親の里の石川県大杉谷村というところに行っていて、そこで昼にラジオを聞いたんです。父親は山中温泉で道場漆器店を営んでいて。今も兄貴の家族が継いでおりますがね。 放送を聞いた時は、日本は神国だから絶対に負けない、という思いがまだありましたから、えーっ!?と信じられませんでしたよ。近所のおじさん連中が「なんで降伏するんだ、死ぬまでやればいいじゃないか」と騒ぎ出したりしてね。 しかしあの時分、沖縄はもうほとんど全滅状態だったこともわかっていましたからね。それにあの頃は、家にある鉄瓶とか金だらいとか鍋とか、金気のものは全部供出させられていた。学校の庭にある二宮尊徳の銅像なんかも持っていかれましたからね。鉄砲の弾や、飛行機の材料にするんだそうですが、もうそこまで逼迫してたんだから、勝てるわけがなかった。
戦争中は、学校の授業なんかほとんどなかった。運動場を耕してサツマイモを植えていたんだけど、運動場の土はだいたい赤土ですから硬くて、なかなかクワが入らないですよ。あとは草刈りに行かされたりね。草を刈って堆肥を作る。そんなことばっかりでしたよ。 空襲はね、石川県へは一回も来なかった。福井市内の空襲の時、大屋根に登って西のほうを見たら空が真っ赤で、すごいなあと思いましたけどね。