海軍にあこがれ、「軍国少女」だった桂由美さん 敗戦の心の傷とブライダルへの道のり #戦争の記憶
日本のブライダル界の先駆者として知られるデザイナーの桂由美さん。日本初のブライダル専門店を東京・赤坂にオープンさせて58年、その歩みは、太平洋戦争に敗れた日本の高度成長期からの道のりと重なる。桂さんが終戦を迎えたのは15歳のとき。海軍将校に憧れ、空襲で無数の遺体も目にしたという桂さんの戦中、戦後を聞いた。(取材・文:高鍬真之、鈴木毅/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
軍服姿に憧れた女学校時代
「あのころは、小学生だろうと中学生であろうと、『日本は絶対だ。間違っているのはアメリカやほかの国で、それをやっつけないと世の中が良くならないんだ』という気持ちを持っていました。学校でそう教えられて、誇りもありました」 そう語る桂さんは戦時中、どこにでもいる活発な軍国少女だった。父は逓信省(現・総務省)の官吏で、母は自身で始めた洋裁学校の校長。妹と4人、千葉県との県境に近い東京都江戸川区小岩に住み、戦争末期までその“影”を肌身で感じることはなかった。 日本が、太平洋戦争へと続く日中戦争の口火を切ったのは、1937年7月の盧溝橋事件。桂さんが7歳のころだ。その後、戦線は拡大し、41年12月に太平洋戦争が開戦。桂さんは44年4月、旧制の共立高等女学校に入学し、多感な時期を迎えていた。
――戦時中は、ちょうど小学生から中学生になる時期でした。 「私、共立で『海軍長官』と言われていました。当時、軍人さんは憧れの的で、海軍派と陸軍派で分かれていたんです。担任の先生が2人続けて軍隊に入られて、1人は海軍、1人は陸軍に行ったんですが、ときどきサーベルを下げた軍服姿で学校に立ち寄ると、みんなでキャーキャー言ったものです。私は、海軍のほうがカッコいいと思っていたから海軍派でした」 ――開戦直後は勢いもありましたか? 「もちろん、日本が戦争に負けるなんてこれっぽっちも思っていませんでした。日本は素晴らしい国と教え込まれていましたし、学校のそばにある靖国神社を通るときは必ず帽子を取って一礼するまじめな少女でした。特攻隊の戦果が大々的に報道されるようになると、いつしか『私も!』と無理を承知で海軍トップ宛てに志願の血書を送ったこともありました。返事はなかったのですが、それほど純粋だったということなんでしょうね」 ――そのころからファッションに興味を? 「それがまったく興味がなかったんです。うちの姉妹は、妹は父に似てやせ形なんですが、私は母に似てぽっちゃりで。当時、日本が戦争に向かっているから体育が重要な科目でしたが、懸垂もできないし、跳び箱も跳べない。小学校の成績表でずっと評価が悪かったのが『体育』でした。そして、もうひとつ悪かったのが『裁縫』。それは共立の中学に行ってからも同じで、先生方からは『お母さんの後を継ぐんでしょう? 貴女がそれでは困るでしょう』って。そう言われると、母には優秀な弟子がたくさんいるのに、なんでこんなに向いていない私がやらなきゃいけないのか、と反感しか持っていなかったですね」