今も「もったいない」が根底に強くある――料理人・道場六三郎91歳が語る戦中戦後の食料難 #戦争の記憶
終戦後に手伝った魚屋が、料理人としてのスタート地点
戦後はもう航空会社にも行かないし、学校にも行かなかったから、しばらくは家の手伝いをしていました。でも、漆器というのは座っておとなしく拭いたり磨いたりする仕事で、僕はチョコチョコ動き回るのが好きでしたからね。一番威勢のいいのは魚屋だと思って、魚屋に憧れてね。ちょうどその時、知り合いの魚屋から声が掛かって、手伝いに行くことに。16歳くらいだったかな。 あの時分、魚なんかも配給だけど、それじゃ少ないから、統制外の闇の魚を、朝早く起きてオート三輪で買い出しに行く。1匹ずつなんてとても売れないから、みんなさばいてね。山中温泉の町には、旅館と漆器店しかないんですよ。だから婚礼なんかあると、魚屋が仕出しで作って納める。それで包丁さばきからタイの串打ちから、全部覚えたんですね。そこが僕のスタート地点です。 帰りには魚のアラなんかもらえて、そうすると父親がえらい喜んでね。父親は料理好きで、けっこうなんでも作る。そうそう、ある時、父親がフグを全部おろしてぬか漬けにしてね。ほんとは3年くらい漬け込まないとテトロドトキシンという毒素がなくならない。それを待ちきれずにみんなで食べたんでしょう。僕が帰ってきたら、ちょうど実家に帰ってきていた姉も一緒に、全員毒にあたって寝てるんですよ。なんとかその後、治りましたけどね。
「東京ブギウギ」に憧れて、昭和25年に東京へ
山中温泉の旅館に出入りしていて、僕も若かったし、ずいぶん旅館の人たちに好かれました。まあ、調子がよかったんでしょうね(笑)。19の時、本格的に料理人の修業をするために上京しました。石川県の料理人の会長さんが添え書きを用意してくれて、築地にあった新喜楽というお店へ。本来なら大阪、京都が近いんですけど、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」に憧れてね。 東京へ行ったはいいけど、最初の日から年下の先輩とけんかして、2日で飛び出した。駆け出しでがんばっていたから、僕も少々荒っぽかったんですよ。それでまた出直して、今度は銀座の旧電通通りにあったくろかべという店へ。ここは長く続きました。 くろかべでは昭和25年の5月から働きましたが、有楽町のあたりは進駐軍がいっぱいいてね。たばこをくわえてターバンをしてる夜の女性たちもたくさん見ました。その頃は、食料はもうだいぶありました。まだ配給だったから、米穀配給通帳っていうのがないとダメだけどね。