今も「もったいない」が根底に強くある――料理人・道場六三郎91歳が語る戦中戦後の食料難 #戦争の記憶
学童動員へ。白いご飯を親に食べさせたかった
戦争の頃は学童動員で、近くの航空会社に毎日通っていました。金属板をトントンたたいて飛行機の部品を作ったりね。するとお昼に白いご飯をアルミのボウルに一杯出してくれるんですよ。それがありがたかったけど、親に食べさせてやりたくて、涙がポロポロッと出た覚えがあります。 うちは6人きょうだいで、上3人が女、続いて男3人の、僕が末っ子なんで六三郎なんですよ。姉たちはもう嫁に行っちゃってて、兄2人は次々と志願して軍隊に入った。終戦間近でしたから戦地へは行かずに、無事帰ってきましたけどね。毛布とか飯ごうとか、全部入れた黒い袋を担いでね。 だから戦争中は、病がちな父親と、母親と僕の3人暮らしでした。それで白いご飯なんか見ると、もう食べさせてやりたくってね。あの頃はだいたい、お米が少しだけ入っている野菜雑炊で。外食券食堂っていう国の食堂があって、雑炊に箸を立てて倒れない、というのが基準だった。水みたいだったら倒れちゃうけど、ある程度濃度があると倒れないでしょ。
その頃の女の人は、「大日本国防婦人会」と書いた白いタスキを掛けて、モンペ姿ですよ。それで防空訓練。モップのような、ハタキのお化けみたいなもので火を消す訓練とかね。母親もやっていました。 町の中が地区に区切られていて、父親は第7区の組合長をやってたんですけどね。うちで地区の皆さんの寄り合いがあって、国からのお達しを報告したり、拝命したり。僕は寄り合いで座布団配って、お茶をいれて。調子がよくて、評判のいい子でしたよ。(笑)
食料は闇取引で。超満員の買い出し列車は大冒険
戦後の食料難はひどかった。戦争中は全て統制で配給でしたけど、けっこう食べられたんですよ。しかし戦後はもう食べる物がなくなって、遠くへ買い出しに行く。それもお金じゃダメで物々交換。うちの漆器を四つ椀とか木皿とか、母親の着物とかも持っていくけど、なかなかお米は分けてくれなくて。サツマイモとか野菜とかね。農家がまた威張っててね、なかなかもらえないんだ。 買い出し列車はいつも超満員。朝4時半ごろに起きて並ばないと、切符が買えないんです。僕が買い出しに行く時に、母親が起きて並んでくれる。冬の寒い朝、マントを着てね。ありがたいという思いが、ひしひしとありましたね。 当時のSLの先頭に、ちょっと腰掛けられる網のようなものがあったんですよ。そこにチョコンと座ると、機関士からは真下だから見えない。危険な話だけど、まあ、僕はすばしっこい子どもだったからね。 その頃、闇取引取り締まりというのがあって、苦労して買い出ししてきたものを、役人が取り上げるんですよ。帰りの汽車も僕は先頭の網に座っているから、あ、役人がいるなと思うと、駅に着く直前、速度もだいぶ緩んできたところで、まず荷物をポーンと投げて、次に自分がうまく飛び降りる。それで荷物のところに戻って拾って、遠回りしてこっそり帰る。そうすると、役人に見つからない。僕の大冒険物語ですよ。