眼鏡不思議話/執筆: 柴田聡子
何年前か、けっこう前に、たぶん眼鏡が直前で壊れたとかそういうことだった気がするんだけれども、ノー眼鏡でライブに臨んだ日があった。替えの眼鏡というものを持っていない時代だった。 柴田聡子さんの1か月限定寄稿コラム/TOWN TALK
終演後、ひきつづきノー眼鏡で友人と話していたところ、その友人がいっしょに演奏を見ていた人の感想を話し始めた。その中でふと「眼鏡がすてきだったって言ってたよ」とにこやかに伝えてくれた。おいおい、今日の私の顔の上に眼鏡があったことなんて一度もないぞ。というかこのノー眼鏡を目の前にして、なんの疑問も持たずにその感想を伝えているきみもどうかしてるよ、よく見て! 無いよ! しっかりして! 友人の肩をこころのなかで揺すぶりながら、現実ではぽつりと「今日、眼鏡かけてないんだけど……」とおずおず返した。友人も、えっ、ほんとだ、と凍りついた。友人の友人はなにを見たのか。ついでに友人もどうして気づいていなかったのか。
相対性理論というバンドの曲に「さわやか会社員」というものがある。冒頭の歌詞に「メガネは顔の一部じゃない」とある。ざわつくライブハウスのフロアでこの歌詞を思い出していた。前回も書いたように、眼鏡をかけつづけていると眼鏡と同化してくる感覚があるし、それは他人にとってもそうらしい。実際眼鏡を好きだったり手放せなくなっても、私が眼鏡になることも、眼鏡が私になることも無いという現実をきっぱりと歌ってくれ、心動いた。また、東京メガネのコピーには「メガネは顔の一部です」という幻想的な言い回しもあるけれども、それは眼鏡と顔の溶け合う未来を予言しているんじゃなくて、眼鏡選びは生活のし易さや装いに関係してくるからしっかりと、そして楽しんでという間接的な表現だろうし、そう、絶対に顔の一部になることはないと全世界が確信していたはずだったんだけれど、眼鏡をかけていないのに眼鏡を見出されるという怪奇が発現。
友人の友人という遠い関係性なので、私の顔にはそこまで見覚えがないだろうし、万が一アーティスト写真なんかで見たことがあったとしても、それで印象がついていたならなおさら、今日は眼鏡じゃ無いんだな、と感じそう。興味が無くて顔の状態を思い出せないということならよくありそうだけれども、そこには無い要素をはっきり見ていたのは不思議すぎる。