「公職選挙法」のせいで日本は「小物政治家」ばかりになる…行政評論家が提案したい「解決策」
前編『齋藤知事の「公職選挙法違反」疑惑に筆者が覚えた「違和感」…そもそもの「落とし穴」』では、選挙や政治資金に関するルールについて、いくつかの例を挙げながら疑問や矛盾を指摘し、思考停止に陥ることなく時代に合った内容であるかを常に検証していくべきであるということを提言した。 【写真】齋藤知事大ピンチ「副知事のなり手がいない」問題が兵庫県庁内で紛糾していた もちろんルールはルールであり、「うっかり」「知らなかった」では済まされず、そもそもルールを熟知しない奴が政治家になろうとする(政治家であり続ける)こと自体が論外だと批判の対象になりうる。ただ、細かく厳しいルールを必死に守るとなれば、政治家にも相当な負担があるはずだ。結果として、「本分」が喪われるようでは本末転倒である。以下では、そうした点について考えてみたい。
本末転倒にならないように
まず考えられるのは、政治家にとってこうしたルール遵守が最優先になってしまい、政治家の本分たる活動に手が回らなくなる本末転倒の事態になることだ。 政治家の本来の使命は、「有権者の声を聴き、社会的弱者の置かれた状況や世の中の課題を把握し、それらの解決に向けて国や地方公共団体などに働きかけていくこと」であろう。なぜあなたは政治家を目指したのですか、と問われた政治家のほとんどが、そういうことを「志」として語るはずである。 これに対して、「選挙や政治資金に関するルールを十分に理解し、ルール違反で足を踏み外さないこと」は、政治家としての使命を全うするにあたって当然随伴する義務ではあるが、使命そのものとは違う。 そう考えたとき、政治家が、後者にばかり気を取られ、道を踏み外さないよう自分の足元ばかり見るようになって、大局を見て行うような仕事が疎かになりはしないか、そのための余裕が失われないか、と心配になる。細かいルールは守れても、小者の政治家ばかりにならないか、と言い換えてもよい。 また仮に、脇の甘い行動(部下や周辺スタッフの管理不足を含む)によりルール違反が起きたことが原因で、優れた政策提案・実現力を持っていた「やり手」の政治家が失脚してしまうような事態が起きたならば、国や地方の損失になってしまうかもしれない。 ただ、そういう話をすると必ず反論が来るはずだ。政治家として有能であれば、多少のルール違反をしていいの、 多少汚職っぽい行動があっても許されるのか、と。