「究極の孤独」と言われる《死》と立ち向かうにはどうすれば…良い意味で「あきらめる」方法
多くの人が感じている悩み
なぜ、女性はその境地にたどりつけたのか。それは病を得て、死について考え抜き、そして自分なりに死を受け入れることができたからだろう。 「人は死んだらどうなるのか」といった、死に対する恐れや疑問をまったく抱いたことのない人は、読者の中にもおそらくいないはずだ。 だが、こうした苦悩を普段、表に出す機会はなかなかない。相続や墓といった俗世の悩みは、誰かに尋ねたり調べたりすることができるが、「死ぬのがこわい」という悩みは、誰かに打ち明けられるものではなく、定まった答えもない。ネットを通じて日々多くの悩み相談を受けている、佛心宗大叢山福厳寺(小牧市)大愚元勝和尚が語る。 「私がふだん、住職として寺にいるときに受けるのは『お葬式や法要をどうしたらいいか』『老親が亡くなったら何をすればいいか』といった相談が多いです。しかし、ネットでは一転して『死ぬのがこわい』『死ぬのが不安だ』という相談が毎日たくさん届きます。ほんとうは多くの人が、自分の『死そのもの』について悩んでいらっしゃるのです」
「あきらめる」の深い意味
人が死を恐れるのは、脳を大きく発達させたがゆえの宿命だ。たとえば犬などは、「時間」の観念が未熟で、ボールの動きのような近未来のことは予測できても、数年後、十数年後に自分が死を迎えることは知らないといわれる。この星のすべての生き物の中で、自らの末路を知っているのは、われわれだけなのだ。 「人間には、特有の能力が2つあります。ひとつは記憶力、そしてもうひとつが想像力です。 ですが残念ながら、多くの人は記憶力を『後悔すること』に、想像力を『未来を憂う』ことに使っています。『別の人と結婚していれば、もっと幸せだったのに』とか、『老後資金が2000万円貯まっていない、どうしよう』などと悩むわけです。これでは、せっかく得た力を間違った方向に使っていると言わざるをえません」(大愚氏) 仏教では、懴悔と書いて「さんげ」と読む。これはただ単に、後悔してくよくよすることではない。自分の過去を反省して、そこから得られた教訓を、よりよく生きるために活かすことを指す。 「未来を想像する力は、『自分はいつ、どんなふうに死んでしまうのか』とビクビクするためにではなく、『死とは何か』をよく見つめるために使うべきでしょう。 お釈迦さまは、死を恐れることを『愚かだ』とおっしゃいました。なぜなら、死の『成功率』は100%で、ひとりの例外もない。われわれの先祖を含め、これまで生まれてきたすべての人が経験してきたことなのですから、じたばたしたところで無駄なのです。必要以上に恐れても、何の意味もない。まずは、その事実としっかり向き合わねばなりません」(大愚氏) いみじくも、第1章の冒頭で紹介した哲学者・ハイデガーと同じことを述べていた思想家が、この日本にもいた。鎌倉時代、曹洞宗を開いた禅僧の道元だ。彼が著した書物『正法眼蔵』には、こんな言葉がある。 〈生をあきらめ、死をあきらむる〉 ここでの「あきらむ」には、「明らむ」すなわち「明らかにする」と、「諦める」のふたつの意味が込められているという。死について考えぬき「明らめ」れば、それは避けようがないことなのだから「諦め」るほかない。すると、生きることの意味や、いま何をなすべきかがおのずと「明らかになる」。逆説的だが、先に紹介したがんの女性も、まさにこうした心境だったのではないだろうか。