誰も見たことのない「生き物」を生み出す 世界的にも注目される特殊メイクアーティスト・快歩
「家には余裕がなかったし、ディズニーランドにも一度も連れていけなかった。休みの日もずっと仕事で、子どもたちはいつも家のなかで過ごしていました。親としてはこんな仕事しててごめんね、って思っていたけど、快歩もほかの子も気にせず『自分は人とは違う』という感じだった」 実際、快歩は気にしていなかった。小1から映画「ベスト・キッド」に憧れてせがんだ空手教室にも通わせてもらえたし、家にテレビゲームがないことも気にならなかった。同級生たちが夢中だったポケモンやデジモンにも興味はなく、ひたすら家に大量にあった絵本を読みふけった。長新太やスズキコージ、『かいじゅうたちのいるところ』のモーリス・センダックなど自由で個性的な絵に魅了され、空想にふけり、絵を描いた。母・愛は店で近所の子どもたちに向けて創作の教室を開いていた。快歩はそれに交じって紙粘土で人形を作ったり、店にある花や木の実で工作をしたりした。そういえば、と愛は思い出して笑う。 「保育園のころ、快歩は花屋の店先で自分で作った紙のお面を売ろうとしていました。誰も買わなかったけど」 小1のある日、父・宏幸が古本屋で水木しげるの『墓場鬼太郎』を買ってきた。アニメの鬼太郎のイメージとはまるで違うダークでディープな世界に、快歩は強烈に惹かれた。 「これ絶対子どもが見ちゃダメなやつだな、っていうのはすごく思ったんですけど。死体が溶けて目玉が落ちて、体が生えてくる目玉おやじの誕生シーンとか、すごくいいな!って、どんどんハマっていきました」(快歩) 見えないものはいないのではなく、見えないけれどそこにいる。そんな水木しげるの言葉に共鳴し、妖怪の絵ばかり描くようになった。 いっぽうで気になったことには何でもチャレンジした。小4からは金管バンド部に所属。部員は全員が女子だったが気にせず堂々と入部した。快歩の「自分は、こうしたい」を徹底して貫く姿勢は、いまも変わっていない。 小学校高学年から中学にかけては映画にはまった。TSUTAYAの100円コーナーでDVDを借り、早起きして映画を観てから学校に行く日々。そして出会ったのがティム・バートンだ。映画「ビートルジュース」で特殊メイクの存在を認識する。「この世界の中で動いている、このキャラクターたちはどうやったら造れるんだろう?」と、本やネットで特殊メイクについて調べ出した。 両親と同じ工芸高校に進学し、デザイン科でデッサンや色彩の基礎を習得した。卒業後、著名な特殊メイクアップアーティストで「自由廊」代表でもあるAmazing JIROが主催するスクール「Amazing School JUR」の門を叩(たた)く。