コロナ禍の震災語り部たち 冷たい慰霊碑「ぜひ触りにきて」 オンラインで当事者たちが紡ぎ出す言葉を追体験 #知り続ける
カメラマンに次の場所に移動するよう、藤間さんが促す。しばらくして、カメラマンがまた目的地に到着する。 藤間さん「今、またある地点に中継のカメラが到着しましたので、切り替えたいと思います。画面が出てきましたが、ここはどんなところだったのか。美香さんたちがここにたどり着いた時、どんな風景だったのかも含めて、教えていただけますでしょうか」 美香さん「ここはですね、娘たちが亡くなった被災現場の近くになります。今カメラがいる辺り、もうちょっと下がったところなんですけど…今下がってもらっていますが、はい。この辺りがだいたい津波のキワです。私がたどり着いた時には、本当にたくさんの被災した車だったり、お家だったり、というのが焼けた状態で残っていました。私は今カメラがあるここで娘を発見するわけですが…。当時は被災したものを登りながら、下の方に降りていきました。3月14日のことでした」 画面には焼けたバスの写真が映し出される。 美香さん「これが、娘たちが乗っていた幼稚園のバスになります。このバスに乗っていた園児5人…私の娘を含む5人が亡くなりました。一緒に乗っていた添乗員さんも亡くなっているのですが、運転手さんは逃げて助かっております。ここで、子どもたちは実は津波の後、10時間近くは生きていたのではないかな、と。どうしてかというと、この高台の上の方に住む人たちのこの辺りから子どもたちの声を聞いたという証言があるからです。ずっと子どもたちの声で『たすけてー、たすけてー』と叫んでいたんだ、と。幼稚園のバスは、お家とかが流されてきて、被さって、パッと見た時に見えない状況ではあったそうです。ですが、3月12日になった夜中の2時ごろに、このあたりに火の手が回ってきました。そしてお家が燃えてしまったので、その後にこういう形で幼稚園のバスが見えた」
藤間さん「ありがとうございます。やっと見つけることができた時に、美香さん自身はどんな思いになったのか…。教えていただけますか」 藤間さんは慎重に言葉を選びながら、これまでよりやや小さな声でたずねた。美香さんはほんの少しの間、言葉を探したが、しっかりとした口調で語り始めた。 美香さん「私はですね、やっぱり娘を見つけるまでは実は…。娘が生きているんじゃないかと望みを持ちながら、この辺りまでたどり着いたんです。娘を見つけて、パッと見た時に、本当に焼けているし、表情すらも分からない真っ黒こげで。下半身すら…すっかりありませんでした。でも、そんな娘でも『ようやく見つけてあげることができた』『これでようやく家に連れて帰ってあげることができる、休ませてあげることができる』と思って、少しほっとしたのを覚えています」 その後も美香さんと藤間さんのやり取りは続く。現場ではないうえ、話す相手の姿が見えないオンラインという環境で、どのようにするのが伝わりやすいのか。改善に改善を重ねて今の形ができあがってきたのだろうか。 藤間さんの質問に美香さんがていねいに答え、藤間さんはさらにその答えをていねいになぞりながら説明を加えていく。2人のことをよく知る佐藤翔輔准教授は「語り部の活動を続けようと思った時、当事者だけでやり続けるのは本当に辛いことで、限界がある。語り部がプレイヤーだとすると、それをサポートするコーディネーターのような存在が必要です。美香さんと藤間さんの関係がまさにそうですね」という。