ドイツから名古屋の有松鳴海絞りをリブランディング、伝統工芸アパレルを刷新した風通しの良さ
英独で感じた日本との価値観の違い
海外は日本とは異なる価値観で社会が動く。美大も然り。大学のデッサンに関する授業の初日に、村瀬さんはまずそれを実感したという。 「鉛筆の削り方を知らない学生がいたんです。日本の美大だったらありえませんよね。 日本はうまく描ける人から順に入試で取っていくので、どの学生も技術はしっかりしています。 一方、イギリスでは上手いか下手かということだけでなく 、独創性も重視される。鉛筆の削り方を知らなかったとしても、そういう学生が面白いものを作り出したりするんです」 しかし、サリーでの生活は半年で終わる。生活費に加えて、イギリスは特に外国人に対する学費が高く、日本で1年間アルバイトして貯めたお金が底をついたのだ。 ヨーロッパに残りたかった村瀬さんは、イギリスからドイツに移ることを決めた。同じ学生寮にいたドイツ人に「ドイツの大学は学費がかからない」と聞いたからだ。 学校は、ゲルハルト・リヒターやヨーゼフ・ボイスといった村瀬さんが当時興味を持っていた現代美術家と縁がある、デュッセルドルフ芸術アカデミーにした。
「デュッセルドルフ芸術アカデミー は、学費もなかったんですけれど成績というものもなくて。先生は出席も取らないし、先生自身が来ないこともありました。半年に1回しか来ないような先生もいました。 卒業は先生に『卒業します』と自己申告する形。自己申告し なければいつまでも学生でいられる。長年在籍しているプロの学生みたいな人もいました」 自由度が高い分、やりたいことが明確でないとつらい環境だが、学生のうちからギャラリーと契約して作品を売る自立した学生もいた。「自分で何かを見つけて制作していく意思がいる」デュッセルドルフでの生活は村瀬さんを魅了し続けた。
日本を離れて3年半。一度も帰国していなかった村瀬さんのもとに、父・裕さんから電話が入った。 「有松絞りのテキスタイルをイギリスで展示するから手伝ってくれないか」 日本から遠く離れたヨーロッパで「まったく興味がなかった」有松絞りとの再会の機会が訪れた。 有松の実家で村瀬さんは、山のように積まれた布に囲まれて育った。将来成長が見込めるような産業でもなく、家業を継ぐことについて父はまったく何も言わなかった。 しかし、イギリスでの展示会を手伝ううち、村瀬さんは有松絞りに対して新たな気持ちが芽生えたという。