【光る君へ】ぞろぞろ登場する道長の子女たちは 露骨なほど明確に序列化されていた
次男でも五男より出世できない
第41回で、顕信が道長に「われわれが公卿になる日は、いつなのでございましょうか」と食い下がったのは、息子たち自身、差をつけられていると感じていたからである。ところが、道長は三条天皇に取り込まれないように、これを断ってしまった。自分が考えている息子たちの秩序を乱されたくないという思いもあっただろう。いずれにせよ、顕信が長和元年(1012)正月16日に突然、出家したのは、相当ショックを受けたからだと思われる。 そういう事情なので、倫子が産んだ頼通は順当に出世した。長和5年(1016)に敦成親王が即位して(後一条天皇)、道長が摂政になると、その翌年には内大臣になり、同時に父から摂政を譲られた。寛仁3年(1019)には関白、治安元年(1021)には左大臣になっている。優柔不断で、公卿たちの前で引退した父から罵倒されることもあったというが、それでも道長は、倫子が産んだ長男である頼通を退けようとはしなかった。 倫子が産んだ次の男子は教通である。道長の五男で末っ子に近かったが、頼通の次に重用された。治安元年(1021)には内大臣に昇進。それから40年以上をへたのち、康平7年(1064)に頼通から藤氏長者を譲られ、治暦4年(1068)には頼通に代わって関白に任ぜられた。 それにくらべると、明子腹の頼宗は明らかに出世が遅い。寛仁2年(1018)に正二位、治安元年(1021)には権大納言に任ぜられたが、その後は進まなかった。頼通が左大臣、教通が内大臣で、さらに長老で『小右記』の筆者の実資が右大臣だったので、大臣ポストに空きがなく、大臣になれなかったのである。寛徳3年(1046)に実資が死去すると、翌年にやっと内大臣になることができた。ただ、天喜6年(1058)には従一位に叙せられ、2年後には右大臣にまで昇進している。
頼通との口論も厭わなかった四男
明子が産んだ顕信が出家した事情は、すでに述べたとおりだが、明子が産んだ男子はほかにまだ2人いた。 3番目(道長の四男)の能信は勝ち気な性格で、倫子所生の男子にくらべて自分たちの出世が遅いことに露骨に反発し、異母兄の頼通に対して公然と反論することもあったと伝えられる。とはいえ、長和3年(1014)には従三位に叙せられて公卿になったのちの昇進具合は、やはり道長の子息である。長和4年(1015)に正三位、同5年(1016)に従二位に叙せられ、寛仁元年(1017)には権大納言に(大臣には昇進していない)。さらに寛仁2年(1018)に正二位に叙せられるなど、ほかの家系にくらべれば出世は早かった。 4番目(道長の六男)の長家は能信より10歳年下だが、治安2年(1022)には18歳で従三位に叙せられ、公卿となった。同3年(1023)には正三位権中納言、同4年には従二位、そして正二位となり、万寿5年(1028)に権大納言になった。ハイペースの出世ではあったが、康平3年(1060)に頼通の息子で19歳の師実が内大臣に任ぜられ、官職を超えられたときには憤慨したと伝わる。 要するに、明子所生の息子たちも、一般的にみればかなりの出世を遂げているのだが、母親の違いによる差はあからさまだった。それは女子についても同様だった。