二十歳のとき、何をしていたか?/永井博 アメリカの風景に魅せられ、描き続けた。 スーパーリアリズムの潮流のなか、 自分だけの色と線を手に入れた。
美大を目指すも受験に失敗。 大道具として働く飛田給の日々。
永井博さんの名前を聞けば、瞬時に浮かぶあの風景。真っ青な空、海、プール、パステルカラーの建物、そしてヤシの木が並ぶ、夏の一瞬だ。鬱蒼と生い茂る緑の奥の真っ黒な影が、日差しの強さを物語っている。 【取材メモ】撮影場所は京王線飛田給駅の近く、味の素スタジアムの隣にある武蔵野の森総合スポーツプラザ。調布飛行場に隣接し、滑走路からは伊豆諸島行きのプロペラ機が飛び立っていた。
「あれは大道具の仕事で習った手法なの。まず黒く塗りつぶして、それから色を入れていくっていうね。そのやり方で、光と影みたいなものを表現したんですよ」
えっ大道具? 二十歳の頃、永井さんはテレビの裏方仕事をしていたという。生まれは徳島市。上京までの話を聞いてみよう。
「小さい頃から、漠然とアメリカに憧れました。あの頃は西部劇でも戦争映画でも、アメリカものが多くてね。音楽番組は、海外のヒットソングを日本人がカバーする、ヒットパレードをよく見たりして」
ファッションが好きで、高校に上がるとラッパズボンをはき、中敷きが真っ赤な尖った靴を合わせた。徳島でそのいでたちとは、相当に洒落た青年だったに違いない。
「でもね、学校にひとり短いパンツにボタンダウンシャツ、スリッポンっていうヤツがいたのよ。その友達が『 “メンクラ”って雑誌があるよ』って教えてくれたの。小林泰彦や穂積和夫が挿絵を描いて、裏表紙には〈VAN〉の広告。すごくカッコよかった。そこでアイビーを知ったんです」
当時は季刊誌だった『メンズクラブ』は、地元の本屋に3冊くらいしか入荷しなかった。永井さんは発売日に急いで買いに行き、ファッション情報を読み込んだ。感度の高い青年は、やがて将来を考える。
「高校では全然勉強しなかったけど、親父が趣味で絵を描いてたし、絵で大学に行けるんじゃないかと考えて美大をいくつか受けたんです。でも筆記試験で全部落ちちゃって。そういえば桑沢のドレスデザイン科も受けたけど、だめだった。洋服のデザイナーにもなりたかったんだね。驚いたのが、武蔵美の試験会場に学生服を着て行ったんだけど、そんなの着てるやついないんだ。ベランダでタバコを吸ってたりして、東京はすごいなって思いました」