二十歳のとき、何をしていたか?/永井博 アメリカの風景に魅せられ、描き続けた。 スーパーリアリズムの潮流のなか、 自分だけの色と線を手に入れた。
同級生から御茶ノ水の文化学院に夜間の美術科があると聞き、そこで油彩やスプレー技法を学んだ。大道具の会社で2~3年働いた頃、おじさんが立ち上げたデザイン会社に転職。デザイナーになり、先輩にデザインを教えてもらった。1970年代に入ると、アメリカで興ったスーパーリアリズムの熱が日本に到来。写真をもとに緻密に描き込まれた絵が話題になった。
「東京都美術館の展覧会に行ったら、ものすごくリアルな車の絵があって、とても素敵だった。じゃあ僕は逆に、光と影を使って描いてみようと。コンピューターが描いたデジタルみたいな線にして」
レコードコレクターでもあった永井さんは、円盤を買うべく、デザイン仕事の傍らイラストを描くバイトを始めていた。その頃、交友関係の広いペーターさんが紹介してくれたのが、イラストレーターの湯村輝彦さんだ。出会ってすぐ意気投合し、仲間たちとみんなでアメリカへ。40日間をかけてサンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴ、ニューヨークを回った。1973年、永井さんが25歳の頃だった。
「湯村さんは僕の絵を推してくれて、色々とイラスト仕事を回してくれました。初めて雑誌に絵を描いたのも、1976年に湯村さんが紹介してくれた『DABU-DABO』というミニコミ誌。巻頭の6ページに、リキテックスで描いた絵が載ったんです」
翌年には、『ザ・ツイスト』というコンピレーション・アルバムのジャケット画を描いた。緑に囲まれたプールサイド。永井さん、この頃からプールを描いていたんだ。
「アメリカってモーテルでも家でも小さなプールがあるでしょう。みんなで旅行に行ったとき、飛行機からたくさん見えてね。あれが印象に残ったんじゃないかな」
プールが大々的に登場するのは、ソニー出版の「artback」シリーズから1979年に刊行されたイラストブック『A LONG VACATION』だ。湯村さんと友人のカメラマン、浅井慎平さんの「夏の絵本」という企画が持ち上がり、デザイナーから「永井くんもどう?」と声が掛かったのだ。文章までは手が回らず、大瀧詠一さんが洋楽の歌詞を引用した。