養老孟司 食と安全を備えた<田舎>が日本から消えたワケ。「昭和30年代から全国の町に<銀座>が出来て…」
「『ああすれば、こうなる』ってすぐ答えがわかるようなことは面白くないでしょ。『わからない』からこそ、自分で考える。……それが面白いんだよ」。わからないということに耐えられず、すぐに正解を求めてしまう現代の風潮についてこう述べるのは、解剖学者・養老孟司先生です。今回は、1996年から2007年に『中央公論』に断続的に連載した時評エッセイから22篇を厳選した『わからないので面白い-僕はこんなふうに考えてきた』より、1996年8月のエッセイをお届けします。 【写真】養老孟司先生 * * * * * * * ◆都市化一直線 戦後の日本を評するに、実際的には「都市化」という表現がもっとも適切だと、私は思う。そう考えて、まずはじめに思い当たることは、昭和30年代だと思うのだが、日本全国の町に「銀座」ができてきたことである。当時それが、マスコミの話題になったという記憶がある。 銀座に象徴されるものは、ここは田舎ではない、もはや都市だ、という住民の願望ではなかったのか。なぜかわれわれは、都市化を目指して、一直線に突っ走って来たらしい。民主化とは、どこも都市になり、だれもが田舎者でなくなることだった。 たとえばいまの日本が、徹底的に輸出入に頼っていることは、小学生でも知っている。それは経済が発展し、「近代化」したおかげであろうか。『方丈記』には、次のように書いてある。 「京のならひ、何わざにつけてもみなもとは田舎をこそ頼めるに、たえて上るものなければ、さのみやは操(みさお)もつくりあへん、念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす」
◆「田舎」はどこにいったのか これはもちろん、終戦後にもあった風景である。たかがしれたものだったにせよ、わが家から「財物」が消えたのは、戦後の食糧難時代である。そのころに着物その他の売り食いをしていた人たちは、『方丈記』にこんなことが書いてあったなあと思いつつ、そうしていたのであろうか。むろんそれどころではなかったに違いない。 鎌倉の街にあったある骨董屋は、戦争中は軽井沢の八百屋だった。軽井沢には、都会人という意味での偉い人が多かっただろうから、食糧難の時代に八百屋をやっていれば、「さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとく」持ってくる客が絶えなかったであろう。だから、戦後しばらくしてから、八百屋が骨董屋になってしまったのである。 ともあれ私より上の世代は、そうした状況をもちろんよく記憶しているであろう。さらに私の年代は、食と安全を求めて、田舎に疎開した。 いまでは日本がほとんど輸出入に頼っているということは、日本全体が鴨長明のいう「京(みやこ)」になったということである。都市に対立するものは田舎だが、その田舎が日本列島から消えてしまったらしい。 それならその田舎はどこにいったのか。すぐには見えないところ、つまり外国に移ったにちがいない。南北問題の「南」とは、つまりそのことであろう。
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