「言葉にできない思いを抱えている人がいる」――遺族と向き合った研究者が語る、震災から10年 #あれから私は
金菱:過去に幽霊の論文が話題になったときは、冷笑や懐疑的なコメントも散見されました。ところが今回は、幽霊や夢を通じて訥々と死者を語る、自らの喪失体験を書いた人が多かった。被災地の人たちは、震災後の日々を生きるため、やむにやまれず「孤独に耐える作法」を体得してきました。そのことがコロナで孤立し、孤独を感じる人たちの心に響いたのかもしれません。
被災者の思いをどう共有するか
藤田:僕は「仙台短編文学賞」の選考に関わっていますが、東京にいると東日本大震災はすっかり終わったように扱われています。でも、応募作は今も震災に関するものばかりで、震災後の生活のリアルを感じさせられます。以前、文学賞実行委員会の代表に仙台の町を見ながら、「華やかに復興しているように見えるかもしれないけれど、うつ病になったり、自殺したりする人はいるよ」と教えられたことを思い出しました。金菱さんのプロジェクトや「仙台短編文学賞」などの取り組みがあってもこぼれ落ちる、僕たちが捕捉できていない生活がたくさんあるのだろうと感じました。 東日本大震災でもコロナでも、人々が共有できることはたくさんあります。でも、あらかじめ理解されないだろうと思って、言葉にできないこともある。共有できないことも理解して、お互いの孤独を尊重し合う姿勢が当たり前になっていけば、人はまた違う形で結びつくんじゃないでしょうか。その機能を果たすのが、文学だと思うんです。直接的な「誰か」に向けてではなく、それを超えた対象に向けて書いていいものですから。 金菱:語りえないものにこそ、共有できるものが込められている気はします。悲劇が起こると、「当事者でないと分からない」と言われます。その通りだと思います。でも、当事者の体験を唯一に考えたままでは、経験しなかった人との溝が大きくなるばかりです。 私は被害の大きさを、死者や行方不明者の「数」で表現することに、強い違和感を覚えます。「数の暴力」による集団化は、集まりを構成する一人ひとりの存在を消すことになり、「死者が社会的に消されている」ように感じるからです。このことが大切な死者と共に生きている遺族を「忘れてしまえばいい」「いつまで引きずっているのか」と追い詰めているのではないでしょうか。 4年ほど前、高校生のときに阪神・淡路大震災に遭った方からメールをいただきました。長年カウンセリングを受けても、あまり役に立たなかったそうです。タクシー運転手が語る幽霊のニュースを知り、「長年の孤独を分かってもらえるかもしれない。気持ちを吐露したい」と連絡してきたのです。 阪神・淡路大震災から20年以上経っても、言葉にできない思いを抱えている人がいるのです。東日本大震災でも同様に起こりうるでしょう。そのことを私たちは忘れてはいけないと思います。 --- 角田奈穂子(つのだ・なおこ) 1963年、宮城県生まれ。東北学院大学経済学部卒業。出版社勤務を経て、1992年、フリーライター・エディターに。2015年、企画編集・出版・PRを手がける「株式会社フィルモアイースト」設立。