バブルの証人が語る「昭和のディスコが私たちに教えてくれたこと」
渡邉 ぼくはディスコに煙草を買ってもっていくというバイトを始めて、それで顔パスにしてもらっていたんですよ。 甘糟 私は……自分で払ったこともありますよ。 渡邉 「も」って(笑)。 甘糟 ほら、あの頃、派手なファッションの若い女子は“しゃべる観葉植物”みたいなものだったから、観葉植物枠として顔パスにしてもらっていました。DJブースのまわりの目立つ場所にいる女の子はだいたいそうだったんじゃないかな。 *1 東京女子大学。キャンパスは吉祥寺と西荻窪の間にある。 *2 1979年、「不二家」の一族、藤井和美氏が六本木に作ったディスコのこと。わずか16か月で閉店したこともあり、伝説のディスコとして語り継がれる。 *3 「キサナドゥ」が名前を変えてリニューアルオープンしたディスコ。 *4 渋谷・公園通りにあったディスコ。入店するともらえるサーフボードのキーチャームをバッグにつけている高校生が大勢いた。 *5 開成・武蔵とともに男子御三家と言われる名門校。
「『トゥーリア』のシャンデリアが落ちた1988年、昭和のディスコも終焉を迎えた」
LEON 当時のディスコと言うと、DJが「今日はX子ちゃんの誕生日~♪」などとよくしゃべっていた記憶があります。それと冷えたスパゲティや甘ったるいパンチのような飲み物。それとみんなで同じ振りで踊ったり…… 渡邉 それは「クレオパラッツィ*¹(以下クレオ)」の後だからでしょうね。「クレオ」がね、時代を変えたんだよね。ディスコって、それまではブラックミュージックをかける場所だったんですよ。横田基地あたりからアメリカ人も来て、ファンクな雰囲気。そこへ「クレオ」が出来て、UKロックへ変わっていった。デュラン・デュランとか(デビッド・)ボウイとかね。
甘糟 1981年よね。バブル時代のディスコの音楽としてイメージされる「ユーロビート」が主流になるのは、もう少し後なんですよね LEON ブラックというと「サーカス*²」が思い出されますが、私のイメージではこれはクラブで、ディスコと一線を画す存在だと思っていました。「GOLD*³」がディスコ時代の終焉を告げ、クラブカルチャーへシフトしていったと思っていたのですが、ディスコ自体にも変遷があったのですね。 甘糟 どこがクラブの第一号かというのは諸説あるんですが、「クレオ」は他のディスコにも大きな影響を与えたのよね。そのメンバーたちが造った「TOKIO*⁴」はすごくカッコよかったし、当時行くのに一番緊張した場所でした。転換期になったのはやっぱり「トゥーリア*⁵」じゃないでしょうか。空間プロデューサーの代名詞のような存在だった山本コテツさんが手がけた大箱で、経営は「レイトンハウス*⁶」。六本木7丁目にビル1棟を新しく建て、コンセプトは“地球に不時着した宇宙船”。事故のことも含めて、バブルを象徴する空間でした。 LEON ダンスフロアの上の巨大なバリライトが落ちて、大惨事になったんでしたね。怪我人も大勢出て、3名の方が亡くなりました。当時の私にとっては「トゥーリア」は大人が遊びに行く場所というイメージで、遠い外国の事故のように感じていました。