江戸時代の武士が利用した「介護休暇」 老親介護をバックアップした驚きの中身
そして翌7日、和光は五ツ半時過(午前8時過ぎ)に東根小屋町の実家から宗家に戻っています。一晩ずっと実父の傍にいて、朝になってから帰宅したわけです。宗家は東根小屋町の通りを北に進み、堀・門を通った先の三の丸の一角にあり、およそ500メートルほどの距離です。和光は自宅に戻った後、午前11時頃からひと眠りして午後1時頃に起き、午後2時には再び実家に行って、午後10時過ぎに帰宅したと日記に記しています。
■「看病断」の申請手順 翌10月8日には、倒れた光成の様子から介護が長期にわたると判断したのか、藩に対して「看病御暇申立」を行っています。ここでいう「看病御暇」とは、先に触れた「看病断」=介護休暇に該当するものです。和光は1807年(文化4年)から1837年(天保8年)まで、途中間が空くものの、延べ23年にわたって家老に次ぐ役職である「御相手番」を務めました。実父が倒れたときはこの職に就いていた時期に重なります。そのため看病御暇を取る旨は、職場の同僚である「同役衆」に対しても回文(回覧板のようなもの)の形で通知しています。
「看病御暇」の申請が受理された和光は、この日以降、連日実家通いをして父の看病を続けていきます。和光の介護形態は、現代でいう別居介護に該当し、さらにいえば、自宅から「スープの冷めない距離」に住んでいる親の介護をする、「近距離介護」に当てはまります。 遠く離れた実家に住む親を、航空機や新幹線で定期的に通って介護することは「遠距離介護」と呼ばれ、大学や就職を機に地方から大都市圏に出てきた人が直面しやすいケア形態です。一方で「近距離介護」は、親とは別居しているものの、お互いが近くに住んでいる場合の老親介護です。「実家がマンション・狭小住宅で同居するには手狭なので、子供は実家を出て近場に居を構える」などの状況が起こりやすい都市部で良く見られます。
渋江和光の場合は婿養子に入ったことで実父と別居しているわけですが、親が住む実家と自宅との距離が近いため、毎日行ったり来たりしてケアを続けたわけです。 ■毎日記録した介護の内容 ただ和光は父の介護のため、具体的に何をどうしたかまでは日記に残していません。『水野伊織日記』に見られた「暁九時両便御快通」のような内容は見られないのです。しかし看病のために何時に実家に行き、何時に自宅に戻ったのかを毎日記録し続けています。何日かピックアップしてご紹介しましょう。