江戸時代の武士が利用した「介護休暇」 老親介護をバックアップした驚きの中身
看病御暇を返上した後は、出来る日はやっているようですが、基本的には泊まりがけでの介護は行わないようになります。しかし実家に向かえないときに行っていることがありました。例えば12月6日には以下の記述があります。 「根小屋ヘ御容子御尋使者指遣候」 (根小屋にご様子を尋ねるための使者を遣わしました) この記述の前日である5日はかなり忙しかったようで、日記の中身は仕事関連の内容で埋め尽くされています。こうした実家に行けなかった日の翌日には、父の様子を尋ねる使者を送っています。看病御暇を取得中は毎日欠かさず実家に通い続け、休みを返上した後でも、使者を送って状態の確認を行っているわけです。ただこの使者を送る行為も、わざわざ尋ねなくても良い状態まで回復したのか、12月の下旬頃になると見られなくなってきます。
■介護の中心役は男性だった この和光の約1カ月半に及ぶケアの記録からは、当時の武士が持つ親への孝心の篤さが改めて感じられます。『水野伊織日記』の水野重教もそうでしたが、渋江和光も実家を出て養子に入っています。他家の人間になっているのに、実父が要介護状態になったことを知るや否や、わき目もふらずに実家通いをしてそのケアに当たっています。 しかも和光にいたっては藩の重鎮であり、家老に準ずる「御相手番」の職に就いていました。現代人が持つ素朴なイメージとしては、それほど身分の高い人であれば、ずっと家にいる妻や使用人などに介護を任せきりにして、自身は介護については何もしない……などの状況が起こりそうにも思えます。実際、和光の実家には、和光の妹や「根小屋かかさま」などの女性も父・光成と一緒に住んでいました。
しかし和光は父の介護を任せきりにせず、「看病御暇」を藩にわざわざ申し出て、実家通いをして実父のケアに当たっています(もっとも渋江家は由緒ある武家なので使用人も多いでしょうから、そうした人たちにあれこれ指示・命令することも多かったとは思われますが)。 この「息子が率先して父の介護に取り組む」「女性ではなく男性が介護の中心役になる」などの特徴は、水野重教、渋江和光に共通している事象といえるでしょう。なお、和光の実父・光成の介護には、妹の婿養子である左膳もまた、「看病御暇」を取得してケアに当たっています(和光が「看病御暇」を返上してから2日後である11月29日の記録に、「左膳」も同様に返上して出勤したとの記載があります)。