江戸時代の武士が利用した「介護休暇」 老親介護をバックアップした驚きの中身
しかし渋江宗家は藩の特別な計らいにより、和光を当主として家名が存続しました。先祖である「渋江政光(まさみつ)」が大坂冬の陣で戦死しているので「先祖抜群之戦功」であり(この時から約190年前の出来事ですが)、さらに1778年(安永7年)に秋田藩のお城である久保田城が焼失した際、渋江家の屋敷が「仮御殿」になった点を配慮したとの旨が、秋田藩の公式文書として残っています。 ■24歳のときに親の介護に直面 渋江宗家の跡を継いだ和光の知行高は2962石(1811年〔文化8年〕時点)であり、これは秋田藩の中でも最上位層に位置する石高の多さです。ただし跡を継いだときは13歳の若年であったため、実父である「渋江光成」と、親族である「荒川宗十郎」の2名が「加談(補佐役)」を命じられています。なんとか無事に宗家を継いだものの、和光は亡くなるまで、宗家の先祖の多くが就いてきた家老職にはなれなかったようです。
ともかくも宗家に養子に入って偉くなってしまった和光でしたが、日記を書き始めて間もない24歳のときに、親の介護に直面します。実家に住む実父・光成が、1814年(文化11年)10月6日に、中風を再発して倒れてしまったのです。その日の日記には、以下の記述があります。 「九ツ時少過根小屋かゝさまより御使者にて、親父様中風御当り直しにて御勝不被成候故、早々参候へと申来候故、……」 (正午過ぎに根小屋の母から御使者があり、親父様が中風を再発してしまい、体調が宜しくありません、早々に参られたしとのお知らせがありましたので、……)
文中にある「根小屋」とは和光の実家のある地名であり、久保田城の南側に広がる武家屋敷街の一つである「東根小屋町」を指します。先述の通り、和光は分家である渋江光成の家を継ぐはずでしたが、13歳のときに渋江宗家の養子となりました。そこで和光の代わりとして実家では、和光の妹の夫であり、秋田藩士の宇都宮家から迎え入れた婿養子・「渋江左膳光音(さぜんみつね)」が光成と暮らしています。この人は和光と近しい間柄で、「左膳」と呼ばれて日記にも頻繁に登場しますが、光成が倒れたとの知らせを受けた日、和光はこの左膳と一緒に夜を徹して光成のケアに当たりました。