「ハニワと土偶の近代」(東京国立近代美術館)開幕レポート。戦前から現代まで、出土遺物への視線はなぜ、どのように変化した?
焼け野原からの復興と開発、「土」を掘り起こす
第2章「『伝統』を掘り起こす――『縄文』か『弥生』か」では戦後の動きを追う。 まず目に入るのは博物館のなかで土器を鑑賞する女性たちの姿を描いた野島青茲の《博物館》(1949)。終戦後、歴史の教科書には、古代の神々の物語に変わって、石器や土偶、埴輪といった出土遺物の写真が登場する。戦後の復興と開発のために発掘が盛んに行われ、皇国史観に基づく歴史記述からの脱却が重要な課題となった時代に、出土遺物も歴史の読み替えに作用した装置になったという。 1947年には帝室博物館が国立博物館に改称し、展示品が皇室の財産から国民の財産となる。このセクションでは、そうした博物館の位置付けが変わっていった様子も当時の新聞記事などから知ることができる。壁一面に書かれているのは、谷川俊太郎が1950年に執筆した詩『埴輪』。かつて皇紀2600年の際に使役されるなど、埴輪が辿ってきた物語が示唆されている。
埴輪や土偶を「発見」した画家たち、前衛芸術家と考古遺物
またこの章では、欧米への見聞旅を経て埴輪や土偶を「発見」した画家たちや、縄文文化に着目した前衛芸術家たちの目線も紹介。埴輪とキュビズムが結びついた斎藤清の作品や、土偶を描いた油彩やデッサンを多く残した長谷川三郎の絵画、1951年に国立博物館で開催された「日本古代文化展」で埴輪の美に魅せられた猪熊弦一郎による《猫と住む人》(1952)などの作品が並ぶ。 自ら収集するほど埴輪にのめり込んでいたという猪熊は、出土の現場や、遺物が眠る土を掘り起こして開発を進める行動経済成長期の風景を感じさせる作品も残している。 さらに展示室の中央では、出土遺物のイメージを受け継いだテラコッタや陶などの立体作品がインスタレーションのように展示されている。ここに並んでいるのは、武人埴輪の兜のようなイサム・ノグチの《かぶと》(1952)や、「縄文土器論」を残した岡本太郎の《犬の植木鉢》(1954)など。 壁一面に広がる芥川(間所)紗織のろうけつ染めの作品《古事記より》(1957)では、日本の古代や神話のイメージと、1950年代に多くの作家に影響を与えたメキシコ美術のイメージが重なる。古事記を主題に百鬼夜行絵巻のように描かれた超大作。本展の出品作のなかで最大となる横幅約13.5mの作品だ。 1950年代後半には素朴な古代のイメージよりも「原始」的な怪物のようなモチーフが登場し始め、同時代に活躍した前衛芸術家・桂ゆきの作品《人と魚》(1954)でも縄の鉢巻をしたインパクトのある顔が縄文時代の土器をもとに描かれている。