「ハニワと土偶の近代」(東京国立近代美術館)開幕レポート。戦前から現代まで、出土遺物への視線はなぜ、どのように変化した?
「万世一系」の歴史の象徴となった埴輪
昭和戦前期の埴輪ブームを追う第1章「『日本』を堀りおこす――神話と戦争と」は、いかにして埴輪が国粋主義と結びつき、戦意高揚や軍国教育などにも使用されていったかがわかる興味深いセクションだ。 この章の冒頭に展示されているのは、埴輪作りに勤しむ人々の姿を描いた都路華香《埴輪》(1916頃)。当時、埴輪作りが主題となった背景には、近代に入って初めての復古的大事業としてこの時期に行われた、明治天皇伏見桃山陵の造営がある。陵墓に置くために1000年以上ぶりに埴輪作りが復活したことから社会的に大きな関心事となっていた。 近代国家「日本」の形成過程において、埴輪は「万世一系」の歴史の象徴となり、特別な意味を持つようになっていく。日清・日露戦争後の国内開発に伴って埋蔵物の発見も増え、出土品は皇室財産として帝室博物館(現在の東京国立博物館)に選抜収集されるようになる。のどかな農村の風景に古墳が描かれている《圓形古墳図》(大正時代)は、二世五姓田芳柳によって、帝室博物館に展示する展示パネルの役割を果たす目的で描かれた作品。 考古遺物は近代の画家たちにとって日本神話イメージの創出を助ける考証の具となった。鮮やかな色彩で古代の人物を表現した杉山寿栄男の作品も、帝室博物館の所蔵品を再現して描いたものだ。 神武天皇の即位2600年を祝う皇紀2600年に際し、様々な国家イベントが計画されていた時期には、考古資料としてでなく、埴輪そのものの「美」が称揚されるようになる。スポーツ大会の記念メダルや、子供向けの絵本の付録、タバコのパッケージなどからは、戦争を背景にした国粋的な高揚のなかで、埴輪や建国神話の図像が大衆の生活に浸透していたことがわかる。
埴輪の「美」の称揚、抽象画家たちの実践
いっぽうでモダニズムの画家たちもこうした動きとは無縁ではなかった。ここでは、地中に眠る遺物と地上に浮かぶ女性の頭部が描かれた矢橋六郎の《発掘》(1937)、難波田龍起が連作で手がけた《埴輪ついて》(1943)、単純化されたテラコッタ色の人体と黄色い円で構成される小野里利信《はにわの人》(1939)など、抽象美術を志した自由美術家協会の作家たちの埴輪への関心も紹介される。埴輪の単純で抽象的な形態は、戦時期に厳しい統制下にあった抽象画家たちの隠れ蓑にもなっていたという。 また、埴輪の美の称揚には写真も大きな役割を果たした。雑誌「造形藝術」に掲載された埴輪のグラビア写真は、それまでの記録写真とは異なり、黒い背景に明暗を強調したライティングを加え、造形の美しさを演出している。本展では、この写真を撮影した写真家・藤本四八にも光を当てている。 1938年に国家総動員法が公布され、国を挙げて戦争に突入していくなかで、埴輪の顔は「日本人の理想」として軍国教育にも使われるようになる。高村光太郎は武人埴輪と南方戦線に赴く若い兵士の顔を重ねて称賛した。倒れた航空兵士を助ける人物が武人埴輪のような姿で描かれた蕗谷虹児《天兵神助》(1943)は、神話世界が古墳時代の風俗で描かれるという、古事記や日本書紀が聖典とされた戦時下の特徴を表している。