「原発は一石十鳥」の熱狂が冷めた瞬間…能登半島地震の被災地が、実は「原発の建設候補地」になっていた…地元誘致の虚構に迫る
地元からの働きかけと電力会社の思惑と
――具体的にはどのような動きがあったのですか。 北野私が直接、反対運動に関わり始めたのは1989年なのですが、2003年に原発計画が中止になった後に当時の関係者に話を聞いたり、記事を検証したりする中でわかってきたことがありました。まず、珠洲原発と言っても、関西電力、中部電力それぞれで経緯が違うんです。 ――関西電力が高屋地区に、中部電力が寺家地区に、それぞれ原発を建てる計画をしており、北陸電力は調整役という分担でした。 北野寺家の中部電力については、当時の漁協で組合長をしていた人が、たまたま中部電力に知り合いがいて、原発を持ってくることはできないもんだろうかという相談をしているんです。1968年から1969年頃です。 同じ頃、1967年には北陸電力が当時の志賀町と富来町(2005年に志賀町と合併)に、志賀原発の立地の申し入れをしています。組合長はそれを見て、原発を呼べば大きなお金が入るのではないかと思ったのかもしれません。これに対して中部電力は、まず地元の方で話をまとめてくれと返事をしたそうです。 ――地元の人から持ちかけていたんですね。高屋はどうだったのでしょう。 北野1970年代の初め頃、当時の関西電力の会長だった芦原義重さんが自ら能登半島に足を運んで、原発を作れないかと回っていたらしいです。当時は新聞記事にもなっていました。その中で、高屋などがいけそうだと目星をつけたようです。 ――いずれにしても過疎化している地域ではありますね。 北野高屋と寺家で経緯は違うのですが、分かりやすいというか、一方の寺家では表向き、過疎が進む地元をなんとかできないかという建前の話があって動き始めて、もう一方の高屋では関電の会長はおそらく、過疎化で人がいなくなる中でここなら地域的にもいけそうだと考えたのではないでしょうか。政治的にも、能登が保守的な土地柄だったことも関係していたかもしれません。 その後、1975年には市議会も動き出して、1976年には関電、中部電力、北陸電力が共同で、珠洲を中心に1000万キロワットの大規模原発構想を発表しました。