「原発は一石十鳥」の熱狂が冷めた瞬間…能登半島地震の被災地が、実は「原発の建設候補地」になっていた…地元誘致の虚構に迫る
もし原発事故があったら逃げることもできなかった
――最終的に、反対運動が奏功したことや市場環境の変化などもあって珠洲原発は2003年に計画の中止が決まりました。その後は、推進側と反対側の人たちの関係はどうだったのでしょうか。 北野それが、私も含めて長年の対立関係があったので孫子の代まで残るだろうなと思っていたのですが、結果的にはかなり早く解消したんです。実際には心の中でいろいろ思っている人はいたのでしょうけど。 ひとつには、私たちの方は計画中止が間違いないと分かった段階で、こちらから勝った、勝ったということは言わないようにしようというのを徹底したことがよかったと思います。同時に推進側の人たちも、未練はあるものの電力会社が出ていく中で原発について語らなくなっていきました。 家庭の中でもおじいちゃんとおばあちゃんと若手で意見が違ったり、職場の中でも原発の話を出すと対立のもとになるわけです。やっぱり、みんな気まずい、しんどい思いをしてきた中で、触れないのが一番ラクだということになったんです。 ――計画中止によって、仕事のあてがはずれた人たちも多かったのではないですか。 北野原発に反対していた時には、「それなら代替案を示せ」と言われ続けてきました。でも私たちは、原発をあてにするのではなく、歴史文化、地域の伝統的な産業を生かし、コツコツと地道に積み重ねていくしかないと言っていたんです。 結果的に、中止になった後は私たちがやってきた方向に向かって流れていきました。原発があてにならないなら地域にあるものを活かして頑張るしかないという思いで、地域の食材や、伝統的な塩田を生かしたり、特色を引き出したりという取り組みが進みました。ようやく、私たちの話が推進側の人たちにも理解されたのかなと感じることがあります。 ――原発の話題は今でも口に出すのは難しいのですか。 北野今はまた、変わりました。計画中止になっても未練がある人たちが多かったのは間違いないのですが、契機になったのは福島の事故です。推進側だった人たちからも、「中止になってよかった」という声を直接聞きました。 それでも、町で普通に話題にできるかと言えばそうではなく、わだかまりのようなものはありました。しかし、3年半ほど前から続いていた群発地震や今年の能登半島地震が転機になり、原発があったら大変なことになっていたということを、推進、反対に関係なく以前よりは話題にしやすくなっていると感じます。 ――なるほど、興味深いです。 北野「原発があったら大変だったし、もう逃げることもできなかったよね」という話は、反対、推進を超えて、今まで原発についてあまり触れたことのないような人たちも、いろいろな場で話をするようになりました。 1月の能登半島地震では、1日の夜は停電で、でも避難所に行っても満杯で入れない人もいました。2日目たっても3日たっても食べ物も支援物資も全く届かない、情報もほとんど入らない中で、このまま見捨てられるんじゃないかという思いも浮かびました。原発の事故があれば、何も分からない中で放射能にさらされたかもしれない。ここにもし原発があったらというのは、本当に恐怖でしかないんです。 あの時に計画通りにできていたらどうなっていたんだろうということを、自分の身に引き寄せて考えている方も多いのではないでしょうか。 【北野進さんプロフィール】 珠洲原発反対運動に関わり、31歳から石川県議を3期務める。その後、石川県平和運動センター事務局で平和運動に携わり、2011年から2期珠洲市議を務める。現在「志賀原発を廃炉に!訴訟原告団」団長。
木野 龍逸(フリージャーナリスト)