「原発は一石十鳥」の熱狂が冷めた瞬間…能登半島地震の被災地が、実は「原発の建設候補地」になっていた…地元誘致の虚構に迫る
市議会が誘致に前のめりに
――当時の市議会では、原発について具体的なやりとりはあったのでしょうか。 北野例えば1972年の市議会では、自民党議員が市長に対して、原発誘致は「一石十鳥」だっていう言い方をしているんです。要するに、人口減で税収が減っても、原発のお金が入ることによって市の財源が確保できて、水道や道路などのインフラ整備、学校、公民館などもできて若い人たちも地元に残れるようになると。原発誘致さえできれば、地域の課題はぜんぶ解決できるということです。 ――「一石十鳥」とは。提案に対して議会はどのような反応だったのですか。 北野全員が同じ認識だったかはわかりませんが、市長よりも議会が誘致に積極的でした。革新系の議員は誘致に反対していましたが、それも珠洲市議会ではひとりいればいい方で、0人になったこともあります。 また、市議会議員は町内の代表者のような形で出てきます。当時はほとんど自民党です。そうした中で、地域の代表の議員に対してもの申す人はほとんどいなかったと思います。 ――表向きの地元の要望と、電力会社の狙いが合致したと。 北野地元のそれなりの数の人たちが、外からの大きなものにすがらないとやっていけない、ここは貧しい土地と思っていたことや、電力会社の思惑が合わさって、珠洲原発の構想が高屋と寺家で動き出したと感じています。 ――そうすると、一方的に押し付けられたということでもないようですね。 北野そうですね。市議会から調査の要望が出ていることもあり、珠洲原発の特徴のひとつは地元誘致型と言われています。1986年には市議会として正式に誘致決議を上げて電力会社にラブコールを送っています。それに応える形で電力会社が乗り込んでくるという形を作ったんです。電力会社の方でそうしたプランを立てたのかもしれませんが、地元からぜひ来てほしいという声があったのは間違いありません。
“地元誘致型”の虚構
――推進と反対で町が二分されたのはなぜでしょう。 北野結果論のような部分はありますが、地元誘致型と言っても本当に市民の中から出てきた地元の声なのかと言っても、違うわけです。市長や議員、地域の商工会議所などのいわゆる「地域の有力者」が、地域住民の声をしっかり聞かずに推し進めた。そうした強引な方法の結果、後々の反対運動の拡大につながっていったのかなと思います。 ――地元誘致と言っても、一般市民とは違うということですか。 北野結局、市民からは、「誘致を求めている人たちは自分たちが甘い汁を吸いたいのではないか」と見えてしまった部分があって、それが反対運動の力になっていったところはあります。 ――1990年代には志賀原発が稼働を始めました。影響はありましたか。 北野1993年1月に北陸電力の志賀原発が動き始めました。珠洲原発の議論がいちばん激しかった頃です。その時期に志賀原発が順調に動いて、周辺の地域振興も絵に書いたとおりにうまくいっていれば、推進側には強力な説得材料になったはずです。 しかし、実際には志賀原発はトラブルも多く、稼働率が全国最低になっていました。地域振興と言っても、箱モノはできましたが思い通りのいい話ばかりではないということが見えてしまったことも、反対運動にとってプラスになったのかなと思います。