「原発は一石十鳥」の熱狂が冷めた瞬間…能登半島地震の被災地が、実は「原発の建設候補地」になっていた…地元誘致の虚構に迫る
過疎化と共に原発誘致の話が浮上
珠洲原発は1975年に計画が明らかになって以降、2003年に電力会社が計画を断念するまで市を二分する対立を生み、市民生活に大きな影響を及ぼした。予定地は2カ所で、関西電力は珠洲市高屋地区、中部電力が寺家地区でそれぞれ、原発建設の計画を立てていた。 ――珠洲市というのはどのような土地だったのですか。 北野珠洲市は能登半島の先端に位置しているのですが、江戸時代からおそらく明治時代の頃までは、海に面していて北前船の寄港地でもあったので、特段裕福でも貧しい土地でもなかったんです。また塩田の製塩が盛んで、加賀藩に年貢を塩で収めたりしていました。 でも産業が農業や漁業などの1次産業から、製造業などの2次産業に変わっていく中で、陸路でも時間がかかる半島先端のハンディキャップもあり、なかなか企業誘致が進まなかった。 冬場は出稼ぎに行けばそれなりに生活は成り立つんですが、半年ほど家族がバラバラになる問題もありました。また子どもは、高校を出たら地域を出て行かざるをえない。勤め先がないんですから。そういう中で若い人がどんどん都会に出て行ったということですね。 ――1975年当時の珠洲市は人口が大きく減少しています。1961年に約3万6000人だったのが1975年には約2万9500人と、14年で7500人も減りました。 北野珠洲市が発足したのは1954年、昭和の大合併の時です。その時点が人口のピークで3万8200人ほどでした。その後の人口減少は自然減ではなく、中卒、高卒の子どもが出ていくような社会減が中心でした。 ――珠洲原発の立地計画は、そうした難しい時期に出てきたと。 北野そうです。1960年代には観光ブームが起こって、観光バスを連ねて能登半島を訪れる人が増えた時期もあったのですが、70年代には一段落して、当時の市議会の議論を振り返ると農業の特産品づくりや、すぐに来てくれる企業がないかという話が出ています。そうした中で、原発にすがっていく、頼っていくという流れになったのかなと思います。 ――原発立地で人口減少の対策や財政再建などが期待されていたということですか。 北野具体的にお金がいくら入るという話は出ていないと思うのですが、過疎対策や財政面での期待があったのは間違いないですね。立地計画が公になったのは1975年で、市議会の全員協議会で調査の要望を決めたときでした。でもこれは突然出てきた話ではなくて、60年代後半から水面下で動いていたんです。