「俺は死ぬ係じゃないから」…「特攻隊」立案編成に深く関わった「男たち」が戦後にとった「あまりにも違う態度」
特攻は既定の路線
大西中将の側近中の側近が、実際の時間の流れでそのように見ていたということは、信用するに足る。要はこの電文は、軍令部で航空特攻を推進してきた源田が、特攻隊の突入成功を受け、そこに一枚加わったことを誇示するためのインチキだということである。だがそうすると、 「特攻をやることはすでに決まっていて、関大尉ははじめから特攻要員として送り込まれたのではないか」 と見る横山岳夫大尉の説と真っ向から対立してしまう。特攻兵器の開発が進み、専門の部隊が開隊している現実からすると、特攻が既定の路線であったことには疑問の余地がない。 だが門司は、「大西の決断」とそれとは、「同じ流れに見えてもじつは別」と考えている。 「もし関大尉が特攻隊の指揮官として送り込まれて来ていたのなら、説得された晩に、大西中将やほかの士官のいる前で、背中を向けて遺書を書いたりするのはおかしい。関大尉が新婚の妻帯者だったことすら先任参謀が知らなかったんですから、それはあり得ないと思います」 というのが、門司の率直な見方である。 歴史は、いや、ものごとにはいくつもの筋があり、それが近づいたり遠ざかったり、複雑に絡み合ったりして、一つの出来事は起こる。 特攻隊の編成に関しても、真相を一本の筋道だけで捉えるのは無理があるのかもしれない。 源田は、戦後は航空自衛隊に入り、制服組トップの航空幕僚長を経て参議院議員に転身するという華麗な経歴をたどったが、戦時中とは一転して、特攻への関与がなかったかのように振る舞った。源田は航空幕僚長在職中、『海軍航空隊始末記発進篇』(昭和36年・文藝春秋新社)、『海軍航空隊始末記戦闘篇』(昭和37年年・同)と、自らの体験をもとにした海軍航空隊の通史ともよべる2冊の著書を続けて出版したが、これらの本のなかでどういうわけか特攻についてはひと言も触れていない。本の中で源田がもっとも力を入れているのは、軍令部勤務のあと、昭和20年1月に司令となった第三四三海軍航空隊に関する記述である。 三四三空は新鋭戦闘機紫電改を主力とした航空隊だが、源田の著書がきっかけとなって、零戦の陰にかくれて無名だった紫電改という戦闘機と三四三空の活躍――のちに日米の記録を照合すると、それはほとんど幻影に近いものだったが――が一躍脚光を浴びるようになり、昭和38年1月、三四三空の戦いを描いた東宝映画「太平洋の翼」が公開される。源田司令が劇中では三船敏郎が演じる「千田司令」になっているなど、登場人物は仮名で物語も大半はフィクションだが、この映画は娯楽大作として大成功をおさめた。劇中「千田司令」は、「特攻以外に戦うすべはない」とする大本営のなかでひとり反対意見を貫き、制空権を獲得して戦勢を挽回するため、歴戦の搭乗員を集めて強力な紫電改部隊を編成する。