「俺は死ぬ係じゃないから」…「特攻隊」立案編成に深く関わった「男たち」が戦後にとった「あまりにも違う態度」
10月13日特攻起案は間違い
だが、二〇一空の特攻隊編成が、事前に決められていた重要な根拠とされる、ちょっと面倒な電文がある。 〈神風隊攻撃ノ発表ハ全軍ノ士気昂揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処 各隊攻撃実施ノ都度純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適当ノ時機ニ発表ノコトニ取計ヒ度処貴見至急承知致度〉 起案者は軍令部第一部部員(参謀)・源田実中佐で、起案日は「昭和19年10月13日」となっている。だが、この電文がじっさいに打電されたのは、関大尉以下特攻隊が突入に成功した翌日、10月26日午前7時17分(軍極秘・緊急電)のことで、電文を打電するのに軍令部第一課長・山本親雄大佐、企画班長・榎尾義男大佐、第一部長・中澤佑少将、次長・伊藤整一中将、総長・及川古志郎大将、海軍省軍務局第一課長・山本善雄大佐、軍務局長・多田武雄中将、次官・井上成美中将と、多くの上司の許可捺印が必要だったとはいえ、「緊急電」なのに起案から打電までにじつに13日を要していることになる。 これについて門司は、 「13日起案は何かの間違い」 と断言する。 「10月13日といえば台湾沖航空戦2日目で、大戦果が続々と報じられていたときです。つまり、ここで敵機動部隊をほんとうに壊滅させていたならば、敵のフィリピン進攻はなかったか、あってももっと時期が遅くなったでしょう。そうすると、二〇一空の特攻隊も出す必要がなかったか、違った形になったはずで、台湾沖航空戦の主力、T部隊を主唱した源田参謀が、この時点でこんな電文を起案するのはいささか不自然です。 しかも、13日には、大西中将は赴任の途中でまだ台湾にいる。そんな時期に、いまだ編成もされておらず、成功するかどうかもわからない特攻隊について、『攻撃実施の都度、隊名も併せ発表してよいか』というのは手回しがよすぎる。 『貴見至急承知致度』というのも、13日起案にしてはせっかち過ぎます。 大西中将は、マバラカットに向かう自動車のなかで『決死隊』とはおっしゃったけれど、隊名まで固めた感じではありませんでした。第一、何機の零戦で何組の特攻隊が編成できるかわからないのに、軍令部があらかじめいくつかの隊名を決めておくなどあり得ないことです。 打電されたのが10月26日朝ということですが、25日午後には、すでに関大尉以下の突入成功の報告は軍令部に届いていたわけで、源田参謀としては、この壮挙に一枚加わろうと、起案日をわざと改竄したのではないか、そうでなければ話の辻褄が合いません」