「俺は死ぬ係じゃないから」…「特攻隊」立案編成に深く関わった「男たち」が戦後にとった「あまりにも違う態度」
最後まで戦う意志を示すことが大切
昭和20年5月、第一航空艦隊司令長官から軍令部次長に転じた大西は、最後まで中央で「徹底抗戦」を主張したが、これも、軍令部次長の言葉は中立国を経由して敵国に伝わることを見越したうえで、 「最後まで外に向かって戦う意志を示し続けることで敵国を和平交渉のテーブルに引き出し、かつ国内の抗戦派を抑えるための『命がけの芝居』」 だったと見るのが自然である。歴史の表面上は、「和平派」の米内光政海軍大臣が、「抗戦派」急先鋒の大西軍令部次長と、大西に焚きつけられた豊田副武軍令部総長に手を焼かされたように見えるが、沖縄戦の帰趨ももはや明らかとなり、まさに日本が滅びつつある昭和20年5月という時期に、この両名を軍令部総長、次長に起用したのは、誰あろう米内である。 米内は、和平工作を進める上で、抗戦派を抑えるために大西を台湾から呼び返した。 このことについては戦後、豊田副武が「極東国際軍事裁判」(「東京裁判」)の法廷の被告人質問で、 「大西の起用は海軍部内の主戦派の不満を和らげるためだ」 と証言している。 米内とすれば、大西が激越に徹底抗戦を叫べば叫ぶほど、好都合であったのだ。米内は、大西に徹底的な抗戦論者を演じさせ、手を焼くふりを演じきった。大西もこれに十二分に応えた。門司親徳はこれを、 「米内海相の政治」 だったのではないか、という。そのなによりの証拠が、大西の遺書には内包されている。 大西は、天皇が国民に終戦を告げた「玉音放送」ののち、8月16日未明に渋谷南平台の軍令部次長官舎で自刃した。戦死した特攻隊員を思い、なるべく苦しんで死ぬようにと、介錯を断っての最期だった。大西が遺した遺書には、特攻隊を指揮し、徹底抗戦を強く主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれてあった。 〈特攻隊の英霊に曰す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり 吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす 次に一般青壮年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ 諸子は國の寶(宝)なり 平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の和平の為 最善を盡せよ 海軍中将大西瀧治郎〉