「俺は死ぬ係じゃないから」…「特攻隊」立案編成に深く関わった「男たち」が戦後にとった「あまりにも違う態度」
特攻隊編成の決断
これらの謎について、大西中将の副官だった門司親徳主計大尉は、「特攻兵器がすでに開発され」、大西が「あらかじめ体当り攻撃の可能性について軍令部総長の承認をとっていた」ということを考慮してもなお、ほんとうにフィリピンにおける特攻隊編成を決断したのは、10月18日夕、「捷一号作戦」が発動されたときだと言う。 「というのはつまり、司令長官というのは天皇から任命される『親補職』ですから、『ダバオ水鳥事件』と『セブ事件』(第2回「海面の白波」を水陸両用戦車と見間違え…敵機上陸の「誤報」で通信設備や重要書類を処分し、司令部としての機能を失った「日本海軍の大失態」)で虎の子の零戦の大半を失うような失敗がなければ、前任の寺岡中将が在任わずか2ヵ月で更迭されることはありえない。このタイミングでフィリピンの一航艦長官が交代したのはいわば偶然の産物です。もし、寺岡長官のもとで『捷一号作戦』を戦ったとして、その時点で寺岡中将が特攻隊を命じたとは考えにくい。 私が大西中将を迎えに台湾に行き、大西中将が高雄に到着した翌日、10月12日に台湾沖航空戦が始まって、T部隊が報告する大戦果を、ちょっと話が大きすぎるぞ、と思いながらもみんなが信じていた。結局、それが幻だったことが現場でわかり、覆されたのは10月16日になってのことで、それまでは敵機動部隊をあらかた壊滅させた気でいたわけですね。 17日、米軍のスルアン島上陸の報を受けて大西中将はマニラに向かい、司令部に着くとさっそく寺岡中将と引継ぎに入ったわけですが、一航艦の残存兵力は、零戦が約30機、その他もあわせて40機ほどしかなかった。 寺岡中将の日誌には、このとき、大西中将との間で特攻隊の編成が話題に上ったとありますが、翌18日夕、いよいよ捷一号作戦が発動されるにおよんで、数少ない飛行機で栗田艦隊の突入を支援するにはそれ(特攻)しかないと、最終的に決断されたに違いない。 ふつうの零戦には250キロ爆弾は搭載できず、搭載するためには改修が必要ですが、二〇一空は反跳爆撃(敵艦の真横からスピードをつけて爆弾を落とし、海面に反跳させて敵艦の舷側に命中させる)の訓練をやってきたので、爆弾を装着できる零戦が、数は少ないまでも揃っていたということもあったでしょう。 この日、大西長官は南西方面艦隊司令部に三川軍一中将を訪ね、それが終わると司令部に戻り、小田原参謀長以下の幕僚と打ち合わせを行っていますが、このとき、なぜ特攻を出すか、という深い真意もふくめて、自らの意思を参謀長に伝えたのだと思います」 …………というのが門司の考えである。当時、軍令部第一部(作戦部)参謀だった奥宮正武少佐(のち中佐)も、 「大西中将は、東京を離れるまでは『特攻』を使う気配すら見せなかった。それが、フィリピンに渡って一挙に結論を出したのは、おそらく台湾沖航空戦や現地のありさまを見ることによって、急速に特攻出撃のほうに傾いたのではないか」 と回想していて、門司の説を裏づけている。