「俺は死ぬ係じゃないから」…「特攻隊」立案編成に深く関わった「男たち」が戦後にとった「あまりにも違う態度」
今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第7回・最終回) 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! 第6回<大勢の部下を死なせて「おとり」作戦を成功させたのに、謎の「突入取りやめ」ですべてを無にした中将が戦後に語った「真実」>より続く
特攻隊は時間の問題
ところで、大西瀧治郎中将がいつ特攻隊の編成を決意したか、なぜ、艦上爆撃機出身の関行男大尉が戦闘機隊の第二〇一海軍航空隊に分隊長として転勤してきたのかなど、このあたりの経緯にはいくつかの謎がある。 すでに特攻兵器の開発は始まっていて、特攻専門の部隊も開隊されている。要は、最初に引き金を引くのが誰か、という段階にまで、ことは進んでいた。 だから、大西がたまたまその役回りになったに過ぎない、という見方もある。誰が長官であっても、特攻隊を出すのは時間の問題であった、とする意見である。 指揮官の関大尉にしても、はじめから体当り攻撃のためにフィリピンに送り込まれたという見方がある。 事実、関が二〇一空に着任したときマニラで会った横山岳夫大尉は私に、 「艦爆出身だというから、てっきり戦闘爆撃隊である私の隊(戦闘第三一一飛行隊)に配属されると思ったら、そうじゃなかった。あとから思えば、関君は最初から特攻隊の指揮官要員として送り込まれたのではないか」 と語っている。これは一つの状況証拠だが、このへんの人事の機微をどう捉えるかは、見る角度によって判断が分かれる。