伊那谷楽園紀行(6) 霧の晴れる谷の中へ
バスターミナルの中に入ると、確かにコインロッカーがあった。ただ、どれも手荷物サイズの大きさで、ぼくの抱えている40リットルのバックパックは、入りそうにもなかった。仕方ない、このまま背負っていようか。 そう思っていると、売店のレジに座っていた初老の女性に声をかけられた。 「入らない? じゃあ、見ててあげるから、そこに置いておきなさいよ」 そういって女性は、レジの横の空いているスペースを指さした。 「ありがとうございます」 「200円」 財布を見ると、小銭は十円玉しかなかった。ちょうどレジの横にある傘を手に取って千円札を差し出した。 雨の中を、少し寒さに震えながら、まずはなにか、まともなものを食べたいと思った。 棒ラーメンばかりの数日間。少しでも、人の手が入ったものを胃袋が求めていた。汽車に揺られている途中で、この地方の名物であるローメンのことを思い出していた。
伊那谷。その中でも、ほぼ伊那市周辺にしかないという特異な麺料理。戦後に、普及したその食べ物は、基本が蒸麺とキャベツとマトン。味はソース味だが、店によって丼に入ったスープたっぷりのものだったり、焼きそば風だったりと様々。加えて、卓上の調味料を使って、自分が好む味付けにするのだという。美味いのかどうかもわからないけれど、土地の人が日常的に食べているものを口にして、胃袋の飢えを埋めたかった。 途中で、ローメンマップという唯一、観光客向け風の地図を手に入れて、「萬里」と「うしお」、2軒の店をはしごした。萬里は、ローメンの元祖。うしおは、駅近くにある人気店。 前者はスープ系、後者は焼きそば系。2軒の店をはしごしたのは、純粋な探究心からではなかった。 最初に入った萬里で、もしかして、大盛りは本気で多いのではないかと思い、普通サイズを注文した。卓上に置かれたローメンの食べ方を読みながら、少し酢を多めにいれて啜った。美味いとか不味いとは違う、なにか特殊な味を感じた。その特殊な感覚をもっと味わいたいと、胃袋が求めた。 店構えが中華料理屋そのものの萬里に対して、うしおは居酒屋風。下戸のぼくが入っても大丈夫かと気になったが、引き戸を開けると、皆一様にコップで水を飲みながら、ローメンを啜っていた。大盛りを注文すると、驚くほど早く皿が運ばれてきた。 今度は、落ち着いてあたりを見回す。隣に座っていた男性が、やたらと七味唐辛子をかけているのを見て、それに倣った。さっきとは違う、焼きそば風のローメンは、またなにか、特殊な味覚を注ぎ込んできた。美味いとか不味いではない、何度も食べたくなる不思議な味。胃袋が許すならば、もう一皿でも二皿でも。あるいは、もっと別の店でも食べたくなるような味。一言では表現しようもないが、人に聞かれると確実に「美味い」と答えるしかない味だった。 胃袋の満足で、嫌な雨も少し和らいでいるような気がした。ネットで見た、銭湯が開くまでの時間、街を歩いてみることにした。